2001年 7月号 「葬式仏教」と「通過儀礼」 明日裡空塾塾生 谷村 里子 様
   先日、母方の伯母の葬式に出席したが、伯母の葬儀を体験して人生の通過儀礼についても考えさせられるものがあった。
私の家は特に信仰している宗教もなく神棚も仏壇もない。それでも一応、夏に両親の実家へ行けばそれぞれの仏壇に手を合わせ、お墓参りをし、お正月になれば初詣に行く。ついでに、年末にはクリスマスもやってくる。年中行事のように仏と神とイエスキリストが日本中の家庭を駆け回っている。
以前「葬式仏教」という言葉を聞いたことがある。確かに私たちの生活の中では仏教に触れる機会は葬式や法事以外にないが、「葬式仏教」という言葉が生み出されてしまった背景には、明治維新政府の宗教政策がある。維新政府は国家神道を「公」として、キリスト教や仏教は「私」的に行われるべきものであり、仏教は祖霊崇拝と葬儀の執行を主な役割と位置付けた。そして、その延長線上に私たち現代人の宗教観が成り立っている。
自分といえば、成人式では着物を着せてもらえるのが嬉しかったのと懐かしい顔ぶれに囲まれて楽しく過ぎた1日であったし、7月挙式を行う予定である自分はキリスト教式で行い、ドレスを着ることができることをぬかよろこびしていた。私自身、通過儀礼が単なるイベント化してしまっていることを当然として受け止めていた現代っ子である。無宗教でミーハな自分がなんだか心苦しい(一応キリスト教の講座は受講します)。
しかし、このような宗教観・宗教を舞台とするイベントそのものにとらわれず、誕生、成人、結婚、葬儀などの通過儀礼を行うことは、本来自分の人生や生き方を見つめ、これからの人生をどのようにとらえ、いかに生きていくべきかを確かめる重要な意味を持つのだと高校時代に教わったことがある。
伯母の葬式でこのことをふと思い出し、生きることの意味と生き方について考えさせられた。考えてみれば現代の日本人はこんなふうに通過儀礼に合わせて宗教もバラバラで、儀式は当然のように形骸化し、宗教的意味を失っているような気がする。
普遍的な意味を持つ宗教として「生」と「死」の意味を問い、生きることの尊さから自分の存在理由を見出し、生きることの原点に立ち返ることを現代人は忘れかけているのだろうか。