2001年 5月号 私の「我道をゆく」 金沢杜の里街づくり委員会事務局長 市村 銑冶 様
   司馬遼太郎の小説に「我道をゆく」がある。第一巻の「甲州街道、長州路ほか」に始まって第四十三巻「濃尾参州記」まで続く大作である。私は旅に出るとき前もってこの小説を読み返し、時には持参して出かけるようにしている。
 桜が満開の先日、美作津山城址の石垣修築を視察した帰路、但馬竹田城、福知山城、丹波篠山城を旅した。津川市は「砂鉄のみち」、福知山、篠山は「丹波篠山街道」に登場する。
 いずれの城址にも満開の桜がよく似合い、また周辺の里山には自生する薄紫色のダンセンミツバツツジが咲き乱れ、心も浮かれようというものである。
 篠山では、城址の隅々と旧城下を散策してみた。篠山の旧城下は、戦国のころには存在せず、盆地の中央に篠山城が築かれたのは関が原の後で、徳川の世になってからで、幕府の命により西国二十大名に普請いっさいを分担させる「天下普請」の築城であった。担当させられた大名は、旧豊臣系の藤堂、池田、福島、加藤、浅野などの諸氏で、同じ頃に名古屋城、江戸城も彼らが分担した。福島正則がついに悲鳴をあげてこぼすと、幼友達であった加藤清正がたしなめ、「戦って勝てるなら文句をいえ」と言ったという。司馬小説の「関が原」や「城塞」にこれらの人物が登場するが、当時の世の動きや彼らの人となりに想いをはせながら篠山城主は江戸初期には譜代大名が頻繁に交代したが、青山氏が入封してからは維新までそのまま続いている。この青山氏の江戸上屋敷跡が「青山通り」や「青山墓地」として残っている。
 篠山は二年前に市制をしいたばかりの街であるが、旧城下には今も武家屋敷が残り、建物の造作が古さびたボタン鍋店や猪肉屋が軒を連ねる一方、JR篠山口駅周辺では土地区画整理事業による新しい街づくりが進んでいる。その一画にあるモダンなレストランで昼食をとった。割箸の紙袋に、デカンショ節の文句が印刷してある。

   丹波篠山 山家の猿が
   花のお江戸で 芝居する

 明治維新に乗り遅れた旧藩主の青山忠誠が作った唄であるが、彼の作った鳳鳴義塾は戦前全国で最も多くの将官を出した旧制中学として有名で、丹波篠山というのはそういうかたちで維新に乗り遅れた気勢を表した。もっとも将官のほうは昔の夢と消え、今は唄だけが生き残っている。