自己死
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悟りとは、肉体、知識、感情などの意識のレベルよりもさらに広大な、理由のない世界である智慧が存在している。
肉体は欠陥があれば病名などわからなくても、具体的に不調な兆候が現れ、そして、不調な部分や不調な意識が理解され、原因を求めることはできる最も表面的なものである。
知識は、情報を外部からインプットすることが基本となり、そのレベルを知ろうと思えば、試験を受けるもよし、人と話すのもよし、おおむねの判断をすることが可能である。
感情は、喜怒哀楽に代表されるものであり、その原因を追求することも可能であるが、必ずしも全てが理解できるものではない。
昔はこんなことで涙を流すことはなかったのに、といった変化に驚かされることもある。
同じ対象に対し、違った結果を得る理由などというものは、涙腺が緩んだといった程度のものではないことも多い。
しかし、これらの3つの意識レベルでは、原因と結果というものを観察することができる可能性が残されているといった点で、同じ次元のものであることが理解できる。
しかし、智慧については、インプットしたわけでもなく、そして結果を知ることもできない。
なぜなら、その対象が当初は外部には存在しえないからである。
智慧の気付きは、まず自己の内部にあることを知ることから始まる。
そして、人知とは思えないほどの神秘的なイメ−ジが表面化し、進めれば進めるほど、絶えることのない智慧が湧きだしてくる。
この意味で、智慧は他の3つのレベルとは異なるものであることが理解されるはずである。
人間の愚かさも、宇宙の根源も、執着による自己の呪縛化も、全てが湧きだしてくるように理解される。
それはなかなか言葉にできないし、人に伝えるものではないのかもしれない。
ただし、誰でもが一度はこれを経験する、気付くことができる。
それは全ての外部からの事象に無抵抗になったときである。
すなわち、“死”となった瞬間に、人々は悟りを得るのである。
そして、“生”を受け取り、この世の経験を蓄積していくたびにこれを忘れてしまうのである。
母親の胎内、もしくは生まれてまだ無垢な頃の記憶を残している人がいるとすれば、もしかしたらこの経験・気付きを人々に伝えることができるかもしれない。
まずは、母親に対し、自分が生まれる前の母親の環境のこと、生まれたときの記憶、生まれて間の時の事件などを話し、これが母親の記憶と一致していれば、素直な母親ならばこれを認めるだろう。
しかし、そんなことあるわけがない。この子はおかしくなったのではないか。という自己の人生の経験に執着する母親は、いつか母親自身もしくは誰かが子供の誕生時のことを子供に話したのかもしれないと、手品の種あかしのように、自分を納得させてしまうだろう。
ましてや、悟りを得た人々が周囲の人々にそのことを伝えようとしても、それはもっと悲惨なことになるかもしれない。
精神病院行きか、教祖に祭られるかどちらかかもしれない。
いずれにしても悲惨であり、悲惨な状況を受入れてしまえば、それは自己否定する結果となってしまうかもしれない。
全ては“今”に結びついている。しかし、“智慧”は全く跳躍的なものである。
それがおきる理由などないのかもしれないが、それがおこると意識は跳躍してしまう。
意識が跳躍すると、人々の愚かさが愚かなことであると知ること自体が跳躍への起爆剤、チャンスであることを理解する。
愚かな行為を愚かなものとして理解しているうちは、それはまだそれがおこっていないことを示すものである。
“死”の直前、この生が歩んできた道のりを一瞬にしてたどると言われているが、これが本当ならば、そこで始めて“生”の意味を知ることになるのかもしれない。
愚かな行いが、愚かでしかなければ、それは他人事かもしれない。
それが自分自身のことであっても、過去のことは記憶の中でしかないという理由から、間違った理解から、それをも他人事のように理解してしまうかもしれない。
しかし、愚かな行いは、単に愚かなのではなく、自己の意識の中でそれを反省するとともに、そこに教えがあることを認めなければいけない。
自分の本性を、表面化されている自己の個性というものの根幹を見つけださないかぎり、そこには何も得るものはなく、極めて暗い、陰湿な、避けてとおりたいものしか残らないし、残してしまっていたのでは、いつ浮上してくるかわからないのである。
浮上してきた愚かな行為は、その時点でその意味を理解しておかないと、自己の中に蓄積され、そのうちに処理できない爆弾として、精神破壊をおこすものとして成長してしまうのである。
聖人に問題がないのはこのせいであると言われている。
問題が小さなうちに、それも自己内部での問題・矛盾の解決をしておくことで、それは自己を去り、問題は蓄積されることがない。
日曜日だけ、人々は教会へ行き、それまでの過ちを告白し、告白することで、許されると考える。
たしかに告白するためには、自己を客観的に観察しなければならないし、それなりに反省もしているだろう。
しかし、他人に告白するだけで解き放たれるのであれば、犯罪が減っても良いはずである。
社会の犯罪はより巧妙化、より過激化している。
それは、他人への告白ではなく、自己への告白でなければ、それは解き放たれることのない、いつ浮上するかわからないものなのである。
自己に告白するということは、自己を破壊することである。
自己を否定し、自己をたたきのめすことなのである。
しかし、この行為を正面から行うことによって、恐れることなく行うことによって、道は開かれる。
自己の内部での過ちと反省が正面衝突することにより、それが意味していることを知り、過ちは過ちでなく、教えであり、気付きであることを知れば、自己は自己の執着から解放される。
そして、同じ過ちを繰り返すことなく、そして同じところで間違えることなく道を選択できるようになる。
意識の出発点が自己自身からではなく、自己自身を見つめるもう一人の自己から出発することになる。
“死”にいたったときに、自分の慕いを見ている自分の意識といったことに近いのかもしれない。
したがって、多くの人々、大部分の人々が“死”を迎えることにより悟るのである。
自分を客観的に見ることのできる機会を与えられたことによって、それは気付くのである。
自分の意識は、本来は何にも執着していない。
しかし、この世での経験、教育がそれを執着というベ−ルでおおいつくしてしまい、忘れてしまう。
自己破壊は“死”をイメ−ジさせ、それまでの生活を無意味にしてしまう脅迫概念に陥れる悪魔のような存在と感じてしまう。
それは、いったん死んで、そして再び誕生するようなイメ−ジである。
なぜなら、恐怖は“死”に結びつくものであり、恐怖を超えるということは“死”を超えるということであり、“死”を超えるということは再び“生”を受けるということに他ならないからである。
“死”なないかぎり再び誕生することなどできないのである。
しかし“死”を超えてしまえば、そこには素晴らしい“生”が待っているのであり、このことを人々は知らなければならない。
キリストの再誕はこのことを示しているのであり、肉体的なキリスト本人の誕生を言っているのではない。
復活は、肉体的な“生”を継続している中で行われるものであり、行う者は誰でもない自分なのである。
復活しても、それまでの自分を失うわけではない。
これまでの生活と全く変化のない生活を送ることが可能である。
しかし、違うことは、喜びに満ちあふれた生活を送ることができるということである。
安定し、至福を感じ、意識せずして意識し、行う意識なく行い、与える意識なく与え、導く意識なく導き、取る意識なく取り、何からも束縛されることなく、まして自己にも束縛されることなく自由に生きていけるのである。
そこには間違いなどほとんどない。
行うすべてが真理を向いているのであり、そこには間違いはない。
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