自己への恐怖

 追い込まれることによって、人はその救いを求める手法として、誰かにその矛先を向けようとする。

 倫理にかなっていることと理解できているのに、他の人との協調を乱すものであるとすると、それが自己の内に葛藤を産み出すことになる。

 自己の内で選択することになる。

 倫理を選択するか、人との協調を選択するかである。

 倫理を選択してしまったのでは、人の協調を乱す者としてレッテルをはられてしまう。

 そこで、倫理に背く選択をすることになる。

 しかし、自己の中で葛藤するのである。

 善悪を自己の中で決定しなければならないのである。

 倫理を選択するように伝えた人を自己の葛藤の責任者として任命する。

 そのような導きは不要なのであり、そのような導きをするから、私は他の人から人との調和を無私する“悪”といわれなければならないのだ。

 あなたが私にそのようなことを導く権利などない。

 あなたがこのような自分の身の置き処のない状態をつくった張本人で、あなたこそ“悪”の根源なのだ。

 全ての人々は逃げ場を求めている。

 それが自己の内の葛藤であるにも関らず、それを解消することを拒否し、そして外にその原因を見つけだす。

 見つけ出すことでは天才的な防衛本能である。

 しかし、それによって、後悔はあとになって浮上してくるのである。

 倫理に背いたという事実が、いつかは目の前に現れ、そして再び自己を攻めつづける。

 自分が悪いのではない。経済社会ではあたりまえのことだ。この世ではより強い者が生き残るのだ。

 だから、「私の選択は間違ってなどいないのである。」 とでも自分を納得させるのであろうか。

 小さな誤り、小さな“悪”のレッテルに恐怖するから、より大きな“恐怖”を自分のものとしてしまう。

 地獄は自己の選択のミスであり、自己に執着、自己の立場に執着、自己の権利に執着することから始まるのである。

 誰から忠告を受けたからではない。

 それは単に決定ではなく、指導でもなく、規則でもなく単に忠告だ。

 その忠告をどのように判断したのかは自己の問題である。

 それが問題になると、即刻それを誰かの責任にしようとする。

 決定したのはあくまでも自己であることを忘れて、他人の責任にしようとする。

 それが悪魔の言葉であろうが、天使の言葉であろうが、決定したのは自分以外の何者でもないのだ。

 私はどうやってこれを伝えれば良いのだろう。

 自己防衛本能に自己を見失った人々を気付かせるためには何をすれば良いのだろうか。

 愚かな判断をする人々を導くことなどできないのかもしれない。

 それは自己ですら自由にならない生を持っている人々に、何を言おうと無意味なのかもしれない。

 それはあくまでも自己で気付かなければならないことなのだ。

 私の声はあくまでも忠告であり、規則でも、決定でも、何でもないのだから。

 善悪は立場か代わるとそれは全く違うものとなってしまう。

 殺人は悪であるが、その理由は善であるかもしれない。

 奉仕が善であるが、その理由は悪であるかもしれない。

 それを導くことなどどうやってするのだろうか。

 自分の存在を置くことだけで、それをどう判断しようがその人本人の問題としておかなければならない。

 人々を地獄から救うのが目的なのか、天国に導こうとするのが目的なのか、それは極めて難しい問題である。

 地獄から救っても自己で気付かないかぎり何度でも地獄に落ちることになる。

 天国に導こうとしても、自己で気付かなければ何度でも天国から離れてしまう。

 天国と地獄という表現のしかたは誤解を生むかもしれない。

 天国も地獄も自己の認識であり、他に存在するものではない。

 恐怖はそれから逃げたいとする意識を産み出させる。

 恐怖が強ければ強いほど、その根源から逃げようとする。

 ところが、恐怖の根源は自分でしかないことに気付くことで、自己から逃れることができない自己に気付くことになる。

 自己を替えないかぎり、いつまでも恐怖は自己の内に止まる。

 恐怖の根源を他に見出せるうちはまだ逃れられるかもしれない。

 しかし、最大級の恐怖は自己の外にはありえない。

 “死”はその最大級のものであるが、全ての恐怖は自己の内にあるものだということを理解していない。

 恐怖の根源が自己の内にあるものだということに気付けば、それを解消しなければ、精神異常になるか、世捨て人にならざるを得ない。

 私は「オドシ」によって“恐怖”を与え、そして自己の中にこそ恐怖の根源があることを示すことはしたくない。

 それは賢い手法かもしれない。

 それは手っ取り早い手法かもしれない。

 しかし、それでは恐怖は結局与えられたものであるという結論に戻る可能性があるからだ。

 現世にはそこまで完全なる人々はいない。

 現世にはそこまで強い意志を持った人々はいない。

 理論で戦う「否定スル」、恐怖を与える「オドシ」は結果的に失敗するのである。

 さらに「サトス」ことでも、上下関係が成立し、そして力関係が成立することになる。

 それではやはり失敗することになる。

 「受入レル」しかないのである。

 あまねく受入れることにより、受入れる聖人の意識を言葉ではなく伝えることができれば、そこには感謝が生まれるはずである。

 感謝が生まれれば、その聖人の意識と同じ状態になろうとすることは当然のことであるし、聞こうとする、見ようとする意識が芽生える。

 そして、多くの人々が言葉ではない伝えによって導かれる。

 そこには無理などなく、心から導かれるのである。

 執着するのは、過去に執着することであり、今に執着しているのではない。

 過去の地位、財産、立場に執着するのであり、今にはそのようなものは存在しない。

 蓄積されたものは全て過去の遺産であり、今にはそうしたものは全くない。

 突然何もしていないのに、今、地位や財産や立場を得る人などいないからである。

 そして逆に、今、地位や財産た立場を何もしていないのに失う人などいないからである。

 未来の地位や財産や立場のことなど話しても笑い話にしかならない。

 未来の地位や財産や立場を失うことを考えれば、妄想となってしまう。

 “今”はこの時点しかないし、それは固定されているものではなく、常に変化しているものであり、“今”を捉えることなどできないのである。

 恐怖は過去の蓄積を失うことへの未来の妄想なのである。

 そのことが理解できていれば、倫理と調和の選択も問題は悩むことなく解消することができる。

 間違ってはいけない。

 “今”を考えるべきで、今ですら捕まえられないのに、未来が掴めるはずもなく、未来が掴めるのなら、宝くじは必ず当選するし、愛する人は必ず自分のことを愛するようになるのである。

 過去の成功をそのまま行うのが成功への道であると信ずるのも間違いである。

 “今”でさえまったく変化するものであるのに、“過去”なんていうものはそれ以上い変化して当然なのである。

 過去に執着すればするほど、それは過ちとなる。

 智慧にしても知識にしても確かに過去の蓄積であることには違いない。

 しかし、そこには固定されたものが蓄積されることに価値があるのではなく、変化するものであるという知識や智慧を持つことに価値があるのである。

 恐怖の対象ですら変化する。

 変化するから恐怖なのである。

 恐怖がいつも同じものであるなら、それを避けることが可能である。

 避けることができるかどうかわからないから恐怖なのである。

 あなたは死ぬことなでどできない。

 あなたの生が終わったとたんにあなたはあなたでなくなるのであるから、あなたには永遠に死を経験することなどできない。

 そんな言い方が素直に聞き入れることができるのなら、そう言おう。

 真理は生死など連続したものであり、誕生し、消滅するものなどではないからだ。

 しかし、そういう言い方ならば理解できるなら、そう言おう。

 死を経験できないのならば、そこには固定化された恐怖などない。

 変化するものをいくら追っかけても真理・真実は見えてこない。

 変化の中に一定の法則を見つけだすことしか真理・真実を見る手法はない。

 変化する恐怖は、その根源が外にあるのではなく、内にあることを示すものであることに気付かなければならない。