時間とは

 時間というのをどう考えていますか。

 1年間も1ケ月も早いけれど、1日は長くてしょうがない。

 それは、1日は今のことだからで、1年間や1ケ月は過去のことだからです。

 今に集中していれば時間は短いし、ぼ−っとしていても短いけれど、気分が乗らないことをやっていると時間は長く感じます。

 時間というのは、気持ちによってその感じかたが違いますし、時計で測る時間を基本にすれば、同時にある人は短く感じ、ある人は長く感じます。

 人それぞれで違うことはあなたもわかっているはずです。

 本来、時間というのは時計で測るものなのか、感じ方で測るものなのでしょうか

 時計というのは実に便利ですが、これで時間を測ることにより、人々は常に時間に束縛されているのです。

 時計を中心に時間が測られるなら、あなたの時間もあの人の時間もこの人の時間も同じことになってしまいます。

 そんなことあたりまえだと思うことでしょう。

 私もあたりまえのことを言っているつもりです。

 しかし、考えてください。

 感じ方で違う時間の差というものは、今、この瞬間が問題となるのです。

 そして、この今という瞬間は、死というものを意識していませんし、永遠に今が続くことを自然と前提にしているものなのです。

 あなたが健康なまま1年後に死ぬとします。

 ある人は健康なまま10年後死ぬとします。

 またある人はあと60年後死ぬとします。

 そしてある人は本当に不死の薬を得たとします。

 未来を予告され、それが疑いのない事実だと考えてください。

 それでも、それぞれの人の時間は同じでしょうか。

 残りの人生でやりたいことを全部したいと思うでしょうし、それが時間的に無理であれば、優先順位を付けるかもしれません。

 逆に、あきらめてしまって、何もしないかもしれません。

 不死を得たにしても、1年の人生にしても同じで、その人がどう考えるかで時間は全く違うのです。

 時計はあいかわらず一定の速度で進みます。

 1年の人生の人の実際に行った成果と10年の人生の人の成果と60年の人生の人の成果とは全く同じかもしれません。

 時間密度とでも言うのでしょうか。

 時間密度の高い人は時間があっという間に過ぎてしまい、時間密度の低い人はそれなりに過ぎてしまうのです。

 秒針を両方の人が見たら、それこそ速度が違って見えるかもしれません。

 人類の歴史は、同じ時間の中で、どれだけ効率よく労働させることができるかで競いあってきました。

 時間密度を上げることと、時間を長く確保することの両面で争ってきたことになります。

 時間密度を2倍に、労働時間を2倍にすれば、能率は4倍になるのです。

 晴耕雨読の頃と比べれば、本当に何十倍になったのでしょうか。

ところが、ゆとりとか豊かさとかいったものを数値に置き換えることができるとすれば、それは数倍になっているかどうか疑問です。

 全ての人々の能率が上がったために、逆に単位当たりの労働評価は大きく低下してしまったのです。

 晴耕雨読の時代の1年は今の10年以上に相当するのかもしれません。

 時計の1年は全く変わりないのに、社会は大きく変化してしまったのです。

 何を目的にこんなに時間の効率を上げているのでしょうか。

 それとも、誰かの仕掛けで時間の効率を上げないと、目的が達成されないと仕組まれているのでしょうか。

別にあなたの会社の社長やその他の誰かではなく、「時」そのものにということです。