未来

 多くの反省を、言い換えれば、正しくない生き方へ詳細な注意を払うことが少しでも生き方を変えることができれば、人間として、生命としてより高き位置へ導く一つの手法となるはずです。

 ただ、正しくない生き方を否定してはいけないのです。

 正しくない生き方を否定する、もしくは遮断することは、自己の中で問題が解決されぬままに先送りするのと同じなのです。

 自己の正しくない生き方を第三者的に見続け、その中で反省を自分に促すようにしなければ、正しくない生き方の発生した根本が見えてこないからです。

 自分が何に執着しているのかを見届けなければなりません。

 正しくない生き方の根本には、自分の何かに対する執着があるはずです。

 「金」であったり、「時間」であったり、「地位」であったり、「楽」であったり、「争い」であったり、「知識」であったり、「悟り」であったり、「過去」であったり、「未来」であったり、様々な根本が存在しているはずです。

 誰しもが何かに執着することにより、善悪の区別なく、苦しみを続けています。

 執着が何もなければ、それは物質世界で生きている目的を失うことかもしれません。

 人間は、執着の中にエネルギ−を求め、そして成長していくものかもしれません。

 しかし、その執着の対象となる「何か」を考えなければ、それはただただ「苦しみ」への道のりを歩むものなのです。

 「未来は決定されているのか」という質問を受けました。

 「運命論者」、「非決定論者」の両者がいると思います。

 両者とも正しいし、間違っているのです。

 決定しているものではなく、決定されていないものでもないというのが答えなのです。

 未来というものが存在しているかどうかを先に論じなければなりません。

 逆に過去というものも存在しているかどうかを考えなければなりません。

 過去は記録、記憶によって確かに存在してきたものとして考えられますが、過去が今と同時に存在するはずがありません。

 過去が存在するとしたら、時間そのものの意味が変わってしまいます。

 個としての過去は存在しないのです。

 これと同じように、未来も存在してはいないのです。

 あるのは、「今」という時が存在しているだけなのです。

 夜空の星々の光は今光輝いているかもしれませんが、それは「存在」とか「非存在」というものではなく、過去の記憶でしかないのです。

 今光輝いている星がはたして今存在しているのかどうかを調べることは今の科学では不可能なことです。

 昔撮ったデビオを観ているのと同じことなのです。

 ビデオの映像はかつての自分が記録されていますが、それを今,昔の自分が生きているとは思わないはずです。

 今の連続が時間であると仮定すると、歴史の決定論者は右図のように、結果的には歴史は1本の線上を「今」が移動しているだけだということを言っていることになります。

 「非決定論者」は、何の原因もなく、未来は選択が自由であると言うことになります。

 しかし、どちらも正解というわけにはいきません。

 人間の生命としてのシステムは、人間の過去の経験の蓄積と、生命として受け継がれているものとの混在で成り立っているものなのです。

 過去の危険や生命としての本質を無視して未来が存在するとかしないとかを論じることはできません。

 私は答えました。

 未来の可能性が100あるとしたら、99は決定していて、1は選択により変換する。

 なぜなら、過去の経験だけをとってみても、未来は過去のベクトルの延長線上にあることになりますが、人間の歴史は生命の歴史に比べたら極めて最近のことでしかないからです。

 その大部分は生命として受け継がれてきたものを継続するしかないのです。

 1つの可能性は、過去を反省することにのみ達成できる手段なのであると言えます。

 「今」を正しく生きていこうとするわずかな1点の意志が、未来を少しずつ正しく変えていく手法なのです。

 やはり「時間」、「未来」、「過去」は存在するではないかと言うかもしれません。

 しかし、「今」の連続が過去であるとともに、「今」の積み重ねが「未来」であり、それは「今」存在しているものではないということなのです。

 「今」は「過去」を反省し、よりよき「未来」を得るための「時」なのです。

 あなたの記憶は、何かへの執着は、そのままあなたの未来に引き継がれていくことになるだけでなく、人類の経験として引き継がれていってしまうのです。

 全ての人類が、過去を反省することにより、未来は必ず素晴らしいものとなるはずです。