母親環境
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記号である「文字」と規則に従って記号がおかれた「文章」、これを文化や認識という目を持って見る「読み手と書き手」、これによって物語も詩も報告書も全て表現できますし、その性格を分けることができます。
記号である「音符」と規則に従って記号がおかれた「五線」、これを文化や認識という目を持ってみる「弾き手と聞き手」、これによってバロックもロックも歌謡曲も全て表現できますし、その性格を分けることができます。
グ−、チョキ、パ−という三種類のしぐさを3人ですれば、6通りの順列と9通りの組み合わせができます。
これらは先に表現手法があったわけではなく、表現手法を決めておいた方が便利だから決定しているのです。
流れの中に法則を見つけ、これを記号化したに過ぎないのです。
科学の世界でも、哲学の世界でも、宗教の世界でも、とにかく学問というのは究極の真理を求めて、現象を記号化するヒラメキを求めて発展してきたのです。
しかし、時折こうした経験に基づく記号は、その時の状況に応じたおもしろい認識結果をもたらします。
「幽霊見たか、枯れ雄花」
「見つけられない豊かな山菜」
見えていないものが見え、見えているものが見えない。
これは「地」と「図」と「認識」という3つの関係からなるマジックなのです。
したがって、見えているものしか「ない」とするのは基本的に間違いなのです。
「見えていない」というのが「本当にないもの」なのか「今は見えないもの」なのか、その時点で「存在しない」と判断するのは間違いなのです。
このあたりの話であれば、よく耳にする話なので特に疑問の余地はないかもしれません。
でも、目に見えている世界しか存在しないといつも言っている自分がそこにはいるはずです。
「言った、言わない」という論争も「言った過去の自分がそこにいることを疑わない」という結果なのです。
さらに、「過去の出来事」を今「実存する出来事」のように考えていること自体もおかしいのであり、少なくても「時」には「今」しかないのでり、いつまでたっても「今」しか存在し得ないのである。
もし「過去」が「今存在」しているとすれば、それは大発明か大発見となるはずであり、そんなことはないのである。
あくまでも認識手法としての「過去」があるそれだけのことなのである。
とは言うものの、私達の業務は「交通計画」にしろ、「地域活性化」にしろこの「認識」というスクリ−ンに映ったイメ−ジを表現し、依頼者に伝えるのが仕事です。
対象が「過去」であろうが、「今」であろうが、「未来」であろうが、実在しないものを表現するものなのです。
また、空間の規模をどの程度にするのかという認識も必要です。
地球環境なのか、地方計画なのか、地域計画なのか、地区計画なのかによって意識を焦点を的確に合わせなければいけません。
時折、依頼者との間でこの焦点のずれから、業務の範囲を大きく超えるもしくはまったく的はずれな報告書を持っていったりします。
これは、言葉だけの表現では話があっていたのに、製品にした段階でエリアが異なっているということかもしれません。
話し合いで重要なのは、話の中身より、相手のイメ−ジを的確に把握するということなのです。
記号表現の性質を経験だけで認識していることは間違いなのです。
景観がよければいい街であるとか、交通が円滑に処理されていれば良い計画だとか、そんな認識は捨てた方がいいと思います。
経験だけの「認識」を放棄し、そしてそこから新たに芽生えた「認識」こそが正しいのです。
あなたが、「死はなぜ恐ろしいのか」と問われてどう答えるでしょう。
「死んだこともないのに、どうして死が恐ろしいもの」と理解されるのでしょう。
死んだ人々が再び死の縁から戻ってきた話を聞いたことがあると思いますが、どれも素晴らしいおだやかな広がりを伝えています。
それなのにどうして「恐ろしい」のでしょう。
出産前後の経験が記憶に残っているのだそうですが、「生」を地、「死」を図と考えているからではないでしょうか。
「生」はどこまでも広がる明るい「生地」であり「死」を唯一付けられた黒いシミとでも認識しているのでしょう。
逆に考えてみたらどうでしょう。
どこまでも広がる暗い「死」の海に漂う一辺の白い紙である「生」、もっと恐ろしくなったかもしれません。
ただ、「地」はその時点で見えない対象であるし、逆に「図」は見える対象だとしたら、まさに「生」は暗い海に漂う白い紙と見ても間違いはないのです。
なぜなら、見えているのは「図」だけなのですから、暗い海であろうが何であろうが見えないのです。
恐い話かもしれませんが、認識は常に一定のものです。
都合の良い時だけ、都合の良い「地」や「図」を選択しているのでは、正しい「認識」を得ることはできません。
宇宙の平均温度を知っていますか。
絶対温度3度というのがその平均温度だそうです。
したがって、小数点以下を除けば、摂氏マイナス
270度というのが宇宙の温度なのです。地球は暗くどこまでも広がる宇宙空間に漂う1辺の白い紙そのものなのであり、平均気温
22度程度?の母親の体内のようなやさしい空間なのです。でも、宇宙の温度がこれ以上高かったら、それこそ恐ろしい溶岩のような宇宙となっているかもしれません。
絶対温度3度というのが適度な変化と落着きを持っている絶妙な温度なのです。
偶然がいくつもいくつも重ならないと生存できない生命は本当に過保護な子供のようなもので、ちょっとおどかせばすぐに泣くし、ちょっと気温が下がれば絶滅してしまうのです。
こんな居心地のよい環境にあるのに、それがあたりまえとして「主役は人類だ」のごとく他の生命を葬ってきた人類は「地」と「図」を勘違いしてきた「悪魔」そのものなのかもしれません。
人類が考えている以上に環境は適応力が強く、今ある人類の思いを改めれば、母のような心で、復活する準備に入ることができるのです。
今の生活を大きく変えることなく、ただ真剣に思いをただせば、その声を環境はやさしく聞いてくれるはずです。
私達の仕事は「環境」であり、私達が無言の訴えで正しい認識で正しい計画をおこなえば、環境は自然とやさしい胎内を作り出してくれるはずです。
私達が「図」なのであり、環境という母親のようなやさしい「地」の上に生きていることを理解すれば良いのです。
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