認識論

 暗黒の大宇宙とも思われる空間に小さな光玉のような星がある。

 光玉のような星で生活する人々には、毎日、光あふれた生活を当然のように受け入れ、そして一生懸命活動している。

 ところが、ある時、自分の光玉のような星の外には暗黒の大宇宙がひろがっていることに気付く。

 この世はどこまでも光輝く明るい空間ばかりかと思っていたら、どうもこの星を離れると暗黒の大宇宙らしいことがわかったのである。

 宇宙船に乗り込み、大宇宙に飛び出した人々は光玉のような星が光輝き、無限に広がると思っていた空間が、単に自分の星だけが輝いていることを見たのである。

 この星に夜というものがあれば、夜空の星がないということも理解できたかもしれないが、とにかくいつでも光輝いていたので知らなかったのである。

 上も下も右も左も認識できない真っ暗な大宇宙で、宇宙船は何の発見もなく、希望を失い、ただ好奇心だけで飛び出たことに脱力感を感じ、光玉のような星に戻り、このことを星の人々に告げる。

 「我々の星は本当に光輝くすばらしい星だけれど、我々の星以外に広がる大宇宙には何も見えなかったし、何もなかった。」

 

 何を感じたでしょうか。

 暗黒という底なし沼のような恐怖を感じた人々もいただろうし、光輝く光玉に生まれて安堵した人々もいるでしょう。 

 小さな光玉に暮らす人々は、この時点で明確に自分の暮らす星と暗黒の外部空間を区別したのです。

 光玉の星は暮らす空間であり、その他はとても暮らせそうにない暗黒の空間なのです。

 でも、この両者の空間は私が東京に出て、一人暮らしを始めた三畳間なのです。

 裸電球一つの部屋で、電球を消すと真っ暗な八王子の中でも田舎の下宿です。

 下宿の部屋という空間に、裸電球が一つという、区分できない「部屋」という一つの空間なのです。

 言葉の遊びかもしれない文章は、一つ一つが意味や発音を示す文字によって構築されています。

 記号と観察座標を変えることにより、暗黒の大宇宙にもなり、貧乏学生の希望にあふれた新しい生活拠点とも言えるもです。

 貧乏学生にとって、三畳という暗黒空間も裸電球という星も両者が必要な一つの空間を構成する素材であり、区分できないのです。

 記号という「表現」の差、そして観察する「座標」の違いによって一つにもなり、無限ともなること自体に「認識」という重要なポイントがあります。

 

 宇宙を「無限」と見るのか「一」と見るのかという認識の違いによって、「地」と「図」の関係は大きく異なります。

 私達が見逃しがちな観点は、極小的な部分しか見えず、全体を見えないものとして無視する認識が、単に一つの見方でしかないという観点です。

 地区としての明確な境界があるわけでもなく、市町村としての明確な境界があるわけではなく、国という明確な境界があるわけでもなく、単に管理しやすいという人為的な境界を設定しているにすぎないのです。

 白山が複数の県にまたがっているのは、白山が複数に別れているのではなく、たまたま区切った境界が白山にあったにすぎないのです。

 広域行政という観点が徐々に浮上してきていますが、建設コンサルタントという「土地(地)に柄(図)を描く仕事」に従事している我々が、自ら人為的な境界を前提とした柄を描いてはならないのです。

 全体を認識した上で、表現するのは「境界の中」でなくてはならないのです。

 

 毛利 衛 氏が次のような「文」をニュ−トンに掲載していました。

 

 最近は人工衛星によって地球を観測するリモ−トセンシングの技術が発達し、われわれに貴重な情報をもたらしている。

 しかし、人間の目で直接、宇宙から地球をみることもたいせつである。人間の目はとてもシャ−プで、目が肥えてくればそれだけで地球の細かい特徴がみえてくる。いくら倍率を上げても解像度は落ちないという感じである。

 将来、スペ−スステ−ションの時代になると、宇宙に半年ぐらい連続して滞在することになる。地球に興味をもっている人なら、地球をながめているだけで、半年くらいはあっというまにすぎてしまうのではないだろうか。

 私自身、宇宙から地球をみることによって、地球の歴史や、その中での生物の役割に興味をもつようになった。

 将来、気象学、海洋学、地球物理学、地質学、地理学、生物学、環境科学などの専門家にスペ−スステ−ションに滞在してもらい、地球を長い期間にわたってながめてもらえば、新しい発見があるにちがいない。

 なぜ人間が宇宙に行く必要があるのかという議論もある。しかし人間が自分自身の目で宇宙から地球をながめ、新たな観点から地球や生命について考えることは、とてもたいせつなことである。

 

 より大きな全体を見ることにより、これまでの観点が大きく変わるということはどういうことなのでしょうか。

 そして、私達の仕事は、まさに、より大きな視点から対象を捉えるという観点を養うことで生活の糧を得ているということなのであり、身をもってこれを実行しているはずなのです。

 それは、言葉で表現できるものではないけれど、これを認識していないで仕事をしているというのは、少なくとも、それは私達の仕事なのではなく、仕事のまねをしているだけなのです。

 どんな仕事でも同じだと思うけれど、より大きな観点から見ることができるようになる訓練を無限に続けることしかないのであり、その行為全体が私達の仕事なのです。