「真理」というもの

 「真理」というと、何か科学的なもの、「真理の追求」というと何か宗教的なものを、又は逆に連想、もしくはその言葉の前後にある環境に応じて様々な分野のことに感じます。

 しかしながら、「真理」というものは、分野に区分できるものでもなければ、分野全てを統轄できるものでもありません。

 「真理」とは、言葉では表現できないイメ−ジであり、これを宗教というフィルタ−をかければ「宗教的な真理」となりますし、科学というフィルタ−をかければ「科学的な真理」、社会というフィルタ−をかければ「社会的な真理」などというように、様々な媒体による表現が可能かもしれないというだけです。

 人類は、自然環境を破壊し、人類同士で戦争を行い、友人・知人とは争い、家族でさえ断絶という状態があり、これらのことで日々悩んでいます。

 しかし、宇宙船に乗り、地球を外から見た人々の印象は、国境や争いや人類と環境などという境界がいっさいない生命体としての地球を感じます。

 地球は多くの生命とその他の物質からなる一つの生命体なのであるという実感を、イメ−ジを持ちます。

 放映されている地球の姿だけでは全てを伝えることができませんが、実際に地球を外から見た人々には、これをイメ−ジすることができるのです。

 「真理」も同じようなことが言えます。

 「真理」は「宇宙の誕生」そのものであり、これを観た人々はその時点で同じイメ−ジ、宇宙が一つの生命体なのであるという感覚になります。

 こう表現している言葉が適切かどうかは、日本語という媒体を用いて、これまでの経験の中で表現しているのであり、問題があるかもしれません。

 しかしながら、「真理」を観た人々は宇宙が一つの生命体であることをイメ−ジしてしまうのです。

 地球を外から見た人々は、健全な地球生命体としての営みを復元することを思います。

 これと同じように「真理」を観た人々も、宇宙を生命体として、これの一部を形成する人類の生き様を本来のものにし、そして宇宙の生命体としての営みを健全なものにしたいと祈るのです。

 健全なものにしたいと思う意志を達成させるために、人類の「救済」という目標を置きその実践方法、もしくは「真理」を観るという体験をさせようとするのが「宗教」です。

 イメ−ジとしての「真理」を共通の言語として、誰でもが理解できるようなシステムとして表現していこうとするのが「科学」です。

 しかしながら、どちらの分野も一般の人々には難解すぎて注釈付きの文章を四苦八苦しながら文字を読み、イメ−ジを、文章の流れを読むことができなくなっているのです。

 ただ、日常的な文字を使用し、表現していくような比喩的な表現では、どうしても「そんなこと信じられない」となってしまうのかもしれません。

 「宗教」と「科学」は同じ「真理」を追求したものではありますが、その方法が違います。

 ここで「宗教」とは仏教を中心とした様々な東洋哲学、「科学」とはユダヤ・キリスト教を中心とした西洋哲学と示した方がわかりやすいかもしれません。

 「東洋哲学」と「西洋哲学」はトランスパ−ソナル心理学では「内向」と「進化」、「神は内」と「神は外」、「波動(変化)」と「粒子」、「女性」と「男性」、「知恵」と「知識」、「全体性」と「極小・極大性」、「非二元性」と「二元性」などというように様々な表現をすることができますが、いずれにしても、手法が違うだけなので、求めるものは同じ、すなわち「真理」なのです。

 では、「真理」を観るというのはどういうことなのでしょうか。

 物理的に見るというのは、科学の進歩に伴い、宇宙のはての映像や情報を見るとか超無影響型顕微鏡による映像や情報を得ることかもしれません。

 これが実現すれば、見たものは事実として認識できますから、「真理」を観たことになります。

 これが「西洋哲学」に従った「観る」という行為です。

 では、「東洋哲学」に従った「観る」という行為はどのようなものなのでしょうか。

 簡単に言えば「悟る」ということなのですが、どうも「悟る」ではどのようなことなのかわかりません。

 「ピンとくる」ということが誰しもがあると思います。

 悩んだあげくある瞬間に解決してしまう「ピンとくる」というのもあるし、会った瞬間にこの人はこういう人なのではないかと「ピンとくる」というのもあります。

 「悟る」というのはこの「ピンとくる」という感じの延長線上にあります。

 まさに「宇宙の始まりなど」のイメ−ジが「ピンとくる」ということで、しゃれではありませんが、「ピント来る」、すなわち「焦点が合う」という表現が良いのかもしれません。

 どうやったらこういう「悟る」状態になるのかと聞きたいかもしれません。

 でも、今は誰にもわからないのです。

 釈迦の悟りを得るまでの流れをそのまま実践すれば得られるだろうとしたのが修行と言われている行為なのかもしれません。

 ただ、一つ言えることは、深く意識を集中させること、すなわち「瞑想」することにより、「真理」を観ることができるということです。

 でも「瞑想」でなくても良いのです。

 何かを一生懸命、一所懸命やっている状態、他のことなどまったく感じていない状態、であれば良いのです。

 ようするに「意志を深く集中させること」をコントロ−ルできるようになるために「瞑想」という行為を訓練するのだと思ってください。

 「西洋哲学」では「瞑想」の変わりに「瞑想」状態と同じ行為を装置などの外部に代用させることが基本で、見た事実そのものを真実とするです。

 「西洋哲学」と「東洋哲学」の両者が同じ真理を観て、始めて人々は全て「真理」を見ることができたというふうになるのです。

 では「瞑想」するとなぜ「真理」が観える、すなわち「悟る」のかということについて説明したいと思います。

 「悟る」という文字は「我が心」と書きます。

 人類(とりあえずこうしておきます。)に共通に持っている意識で、通常の状態では思い出すことのない「心」の声を聴くということ、すなわち「内向」ということなのです。

 単に文字を勝手に解釈しているだけだと言われるかもしれません。

 ここではあまり詳細な説明をしませんが、「トランスパ−ソナル心理学」という「第4の心理学」と言われているものが、このことを表現しようとしていますので、もし興味があれば、読んでみてください。

 「おまえは真理を観たのか?」という質問が出そうですが、「観たと思います」とお答えしたいと思います。

 積極的な言い方ではありませんが、今、「観ました」と言えるように活動を進めようと思っています。

 ただ、今多くの人々が「そうではない、そうではない」と社会構造に対して疑問を抱いてきていることは間違いのないことなので、「真理」を観る人々も今後は加速度を上げて増加するのかもしれません。

 最後に注意していただきたいことが一つあります。

 「真理を観た」ときは非常に不安定です。

 なぜなら、これまでの知識と異なるイメ−ジ・思いなので、「どうにかなってしまったのではないか。精神病にでもなってしまったのではないか。」という思いとなり、救いを求めるような行為に走るかもしれません。

 正しく導く知恵を持った人々が回りにたくさんいますので、それこそ「ピンとくる」相手を選ぶ自分の勘を信用し、自分で相手を決めてください。

 相談する相手を選ぶ相談をするのだけは避けるようにしてください。