錯覚
![]()
シヴァ神を神として崇めている若者に会った。
どうも宗教がブ−ムになりつつあるらしい。
「夜、爪を切ると、親の死に目にあえない。」などの迷信と同じように、直接言っても聞かない子供達に別の言葉で注意しているのが現実である。
最少粒子の振動が精神や物質、電磁波、その他ありとあらゆるものの根源であることを子供達(人類)に示す象徴としてシヴァ神をイメ−ジ化しているのである。
それを単に「神」と崇めるのは本来意図していることと違うような気がする。
崇めることが間違いというのではない。
シヴァ神を創造した英知に気付くべきであり、やみくもに「シヴァ神」が意志を持って存在しているように単純に認識することが間違いなのである。
シヴァ神をもって何を伝えようとしているのかを把握すべきなのである。
「空」という思想もそうである。
「空」というものが精神的な教えのような捉え方をしているが、「空」とは宇宙の状態を示すものであり、最少粒子によって構成された宇宙の根源そのものを示しているのである。
「神」とは「絶対的意志」であり、人類に対し何かを指導するものではなく、「ただただ観ている、ただただ与えている」存在なのである。
その中で大きな恵み、すなわちシステムを人類がどう活用していくかが問題となっているだけなのである。
「悟り」を得るというのは、徐々に全体価値の方向に成長する境界線のようなもので、より全体価値に気付くことで、大きなシステムの中で生かされている自己の存在を見出し、そしてより拡大された「部分」へ愛を注ぐようになることなのである。
超能力というものがきっかけとなり、これを得る手法として「解脱」すなわち「悟り」を得ようとする動きがある。
超能力を得るためだけに一定のシステムの中に組み込まれていこうとするのである。
「超能力」を武器にしてはならないし、「悟り」を宣伝文句にしてはならない。
誰でもが、どこにいようと、何をしていようと現実を素直に受け入れ、そして其の中から喜びを感じていけば、おのずと成長が生まれ、その延長線上に「悟り」が存在するのである。
本来の宗教はそのシステムを示しているに過ぎないし、より全体価値に気付いた人々の考え方を示しているに過ぎない。
したがって、宗教が「教える」というのは間違いなのであり、「自己の内面に隠された智慧に気付く」手助けをしてあげるというのが本来あるべき姿なのである。
「悟り」にシステムなどは存在しないのであり、それぞれに個性があるようにそのきっかけは千差万別なのである。
原始宗教は、より全体価値に気付いた人々がその根源のイメ−ジ、すなわち最少粒子からなる宇宙の姿を観たことによる「部分」への愛を伝えようとした「言葉」であり「思想」なのである。
超能力があると、病気を治す力があると、すぐに「教祖」という名を付け、そして団体を形成しようとするのが今の宗教団体である。
「予言」「修行」「超能力」「解脱」「宗教」「教え」これらに関するキ−ワ−ドを多用し、その気にさせられている人類のいかに多いことか。
他己にこれらを求めては間違いに気付く余地がない。
自己にこれらを求めて、そして自己の役割を果たしていくことに創始者達の意図があるはずであり、そうでなければ、単に「革命」でしかない。
個を指導する群と群をチェックする個の相互関係がなければ、個を支配する群と群を支配する限定された個の関係になり、すなわち「戦争している個の意識」となってしまう。
精神世界に興味を持つことは極めて重要なことであり、物質世界だけに価値を求めない生き方は必要なことではある。
しかし、指導者のいない精神世界に錯覚してはならない。
物質世界には確かに先人という指導者が存在したのではあるが、精神世界のことは、自己内に埋もれた智慧に気付くしかないのであり、指導者などいようはずがない。
存在するとすれば、同じ智慧を持つ同朋なのであり、仲間なのである。
この事実は、物質世界に慣れ親しんだ我々の経験の中では先を見ることができない不安を産むかもしれない。
それでもそれを乗り越えれば、安定した共通の智慧であることが理解され、先もなければ後もない状況に安心するはずである。
![]()