最終目的(「一」の世界の達成)

 「最終目的」が達成された「社会」というのはどういう世界なのであろうか。

 物質世界でこれが達成された時の社会の状況というのが命題である。

 物質世界の歴史は、経済活動による生活の糧を得る行為により成り立っている。

 これを放棄し、無意味のことだとするのは、生命を維持することができないで、死を選択するのと同等の意味となる。

 労働し、これへの対価を得るという基本原則を除外して物質世界で生命を維持させることはできない。

 ただし、労働というのが「自らの利益」のためにというのではなく、「他への利益、群への利益」といった他己のために労働した結果得られる対価でなければならない。

 生活の糧を得るために労働することに善悪を問うべきでなく、その目的に善悪を問うべきなのである。

 他己が「他他己のための」労働を適正にしたのであれば、どんなに高額であろうが、高価値を受けようが、これは「善」なのである。

 しかし、もともと「他己のための」労働であるから、自己の富みの部分が必然的に他己に放出される。

 他己とは自己以外の環境であり、そこには、人類やその他の動物、植物、宇宙そのものも含まれている。

 他己と自己を区分することが問題であると言われるかもしれない。

 「一」というのは「他己」も「自己」もないはずであると言われるかもしれない。

 「一」とは精神世界の思いであり、物質世界には自己と他己とはおのずと存在するのである。

 しかし、他己をさしおいて自己を追求するのではなく、他己に生かされている自己の役割を適正に果たしていくということなのである。

 「群」が「個」を適正に指導し、「個」は「群」を適正に評価していく相互関係が成立した世界なのである。

 したがって「一」を達成した物質世界には、他己と自己しか存在しないのであり、その中間的存在として「国」や「地方」といった境界は存在しない。

 かりに境界線があったにしても、名目的なものでしかない。

 個の意志が群の意志になり、群の意志が個の意志になっている世界なのである。

 人種、性別、年齢、障害などは役割分担するための一つの指標でしかなく、本意で平等なのである。

 意味のない開発、開発という名の処刑、発展という名の強奪はそこにはない。 

 物質そのものに価値があるのではなく、物質を作り出す行動に意味があり、行動を起こす思想に価値がある。

 「価値のある思想のためには、適正な行動があるはずであり、不適正な行動を伴えば、思想は目的をすり返られてしまう。」