悟りという認識論的な状況

 悟ろうとしている状況を師匠に伝えた時、師匠は「あっそう」といっただけという(本当にこう言ったのかどうかは知りません)ことがよく理解できます。

 「悟る」というのは自分の中にもあり、他人の中にもあり、環境の中にもあり、そして宇宙の中にも均等にある何かを感じる、すなわちチャンネルを合わせてテレビを見るようなものです。

 ところが、このチャンネルというのがなかなか合わせずらくて、頭の中を特殊な状態にしないとできません。

 言ってしまえば「空」な状態なのですが、これを説明する前に私の場合を説明したいと思います。

 昔から私は物理学というものに興味がありまして、マックスウェルの悪魔だとか、不確定性原理とか、タキオン粒子とかその方面の本を中学校の時から読んでいました。

 高等学校、大学、社会といつの間にか忘れていたのですが、年度末の忙しい時期を過ぎ、年間でも暇な時期となったので、本を読み始めたのです。

 「タオ自然学」という本を2年前ほどに読んでいたのですが理解できないまま「東洋哲学と物理学の共有性」ということをとにかく書いてある本だということだけを理解していたのです。

 暇になった時に買った本が物理学の本4冊で、量子力学、時間の矢その他でした。

 思い付いたことをとにかくパソコンに打ち込んでいましたから、その時も気付いたことを同じように打ち込んでいたのです。

 私の仕事は街づくりであり、都市計画や社会学、仏教哲学などに興味を集中し、打ち込んでいるうちはよかったのですが、打ち込む内容が「宇宙の始まり」の方向に向かっていたのです。

 こんな内容は素人の私がやるべき内容ではなく、そしてわかるはずもない高度な知識がないとだめなはずなのに、その上、私の業務とは無関係なことにいくら時間を使っても意味のあることではない。

 その思いが徐々に強くなり、「宇宙の始まり」を求める意識と「ムダだからやめろ」という意識が心の中で戦うようになったのです。

 その状態というのは、たぶん極度に意識を集中した状態で、まわりが何も見えなくなるようなイメ−ジの世界の中での出来事でした。

 相反する意識が丁度つりあったのでしょう。

 それこそ意識が「空」のような状態となった瞬間、私の手は「宇宙の始まり」の状態をパソコンに打ち出し、そしてこれが私の業務の根本である「街づくり」そして生き方、エネルギ−であるとわかりました。

 「悟る」ことを目的としていただけでは「悟る」ことに達することができないのです。

 「悟りたいという意識」と「悟るべきではないという意識(別にもあるかもしれません)」すなわち、「悟る」という意識を「空」な状態にできる反作用の力があってこそ、力が釣り合い、「空」な状態、波長が合うということになるのです。

 私は「悟る」ということを目的にしていたのではないのですが、それは私が仏門に入っていないだけであって、物理学に興味があっただけなのです。

 ただ、これは偶然ではなく、必然であり、そのようにスト−リ−が決められていたといわれればそうなのかもしれませんが、客観的にその瞬間を示せばこうなるのです。

 知識や欲望などの二元性世界での意識が釣り合い、透き通った状態になってはじめてその深層にある場が見えてくるのです。

 瞬間にでも二元性世界での執着をなくすることが悟るための必須条件であることは間違いのないことのようです。

 ただ、普通の人が心の中を空にすることなどできようはずがありません。

 修行している人だってこれは難しいのです。

 0を目指すのではなく、1+(−1)=0を達成させることが近道なのです。

 執着がある分だけ、執着を捨てようとする意識を強くすることで、0の状態を達成させるのですが、「執着を捨てようとする意識」という執着が増せば、やはり悟りは達成されません。

 どれだけの遊びがあるのか、どれだけの時間が必要なのかは知りませんが、とにかく1+(−1)=0という「空」な状態が必要なのです。

 さらに人類には多くの執着があるので、なるべく意識を集中して、執着すべき対象をより少なくしてやらないと、それこそ神わざ的な反作用を用意しなければなりません。

 私の状態は「宇宙の始まり」への執着だけになっていたので、これを否定することで、空な状態を確保できたのかもしれません。

 一度「悟る」状態となれば、その後にいつでも悟るのかというとそうではないようです。

 ただ、精神的には一時的な興奮状態があるのですが、それを過ぎれば其の前よりもとにかく安定します。

 なぜ安定するのかということについて正確に示すことが私にはできませんが、私の場合は「存在し続ける」意志と「安定」した存在を宇宙に広めたいという自我や自己の欲望以外の願望が表面化してきたので、これは自分が客観的に見ても絶対正しいことだと思ったからかもしれません。

 「宇宙の始まり」の意義、「宇宙のくり返し」の目的、この目的を過去の偉人達が同じように思いこれを表現していたことの気付き、などが順に私の意識の中で生まれました。

 最近では弥勒菩薩の最終的悩みまでを理解したように思っています。

「悟り」が私に与えてくれたのは「安定」だけではなく、認識論という「技術」もあったのです。