奇跡は起るのか?
![]()
奇跡というのはどういうことでしょうか。
私達は一般的に「確率」の中で予想して生きています。
子供が一人で幼稚園や小学校へ通いはじめると親達は心配でしょうがない時期を過ごします。
自動車事故に合うのではないか、誘拐されるのではないかとあらぬ妄想に囚われるのです。
ところが、
10日も過ぎて、何事もなければ、そんな心配はしなくなります。時折遅くなっても帰らない子供に心配することもありますが、それもいずれはなくなります。
こうしたことは「無事に帰ってくる確率が多くなっている」から心配しなくてもよくなるわけです。
飛行機墜落の記事で何百人死亡というのが記載されても、やはり飛行機に平気で乗ります。
飛行機はめったに墜落しないという確率を感じているからで、2回に1回墜落することがわかっていれば、誰も乗りませんし、ここまで航空交通が発達するわけがありません。
奇跡はこうした日常的な確率では起りそうもないことが起ることであり、それも「子供の事故」といった悲しみを伴うものではなく、「喜び」を伴うものとして考えられています。
天動説が一般的な常識であったころ、地動説が宗教的な圧力の中、科学の正当性をひっさげて、宗教の矛盾をついて、宗教が堕落した時があります。
平面であると考えられていた地球が、球で、反対側の地表も同じように地面を下として暮らしていることは、きっと「奇跡」だと思われていたことでしょう。
今では当然「引力」が上と下を決定している要因であり、地球の裏側で逆立ちしていないことは誰でも知っていることです。
「常識的な確率では起りそうにもないこと」が「奇跡」ということなのです。
したがって、常識が変化すれば、これまで常識であると考えていたことが、奇跡となり、奇跡と思われるようなことが常識になることだって有り得るのです。
物理学で、最少粒子を求めて研究された量子力学の末が、「確率で表現するしかない波動のようなもの」でありました。
物質は粒子の集合体で座標も速度も全て捉えられるようなものではなく、確率でしか表現できない「雲」みたいなものであることがわかってきたのです。
単に、物質はどんなに細分化しても物質でしかないという思いが、どうしても邪魔になってきたのです。
物質の根源は、観察のしかたによっては粒子であり、波動であるものであり、観察する者の意識によって変化するものなのです。
波動でもあり粒子でもある対象を考えた時に、人々は、きっと物質の存在を奇跡であると考えたかもしれません。
物質は全て雲のようなイメ−ジであり、確固とした境界線がないのに、物質として観察できるなんてことは奇跡としか言い様がありません。
こうしたことは、科学の発展に伴い、これまで観察できなかったことを観察することにより、今後多くが示されることだと思います。
こうした基本的な考え方に基づいて、「奇跡」を考えてみます。
「人間技とは思えない状況がおきる良い結果をもたらす事象」と定義したとします。
カラカラ天気が続いて、雨乞いしたら雨が降るというのは奇跡だと考えますが、実際に振れば、現実に起っていることなので「寒冷前線が」というような理屈を付け、奇跡とは見ないでしょう。
受験に合格するように祈願しますが、これは確率を高めるために奇跡を願うものです。しかし、合格しても実力ということになってしまいます。
十戒で「海が割れて人々が逃げられた」とするのを奇跡としていますが、実際に潮の満ち引きで海に道ができることもあります。
もし運命というのが決められていて、これに従って出会いがあって、生きていくのだとすれば、綿密なシナリオに基づいて、気付かない間に名俳優になっている人類を奇跡とみなさないで、なんと言うのでしょうか。
逆に、抽選により1等
7000万円を得た人は確率は同等にあるのだから、たまたま当選したと考えるかもしれませんが、交通事故が毎年ほぼ同数で推移しているのは、なぜなのでしょう。医療の水準とか所得の水準の差なのかどうかはわからないけれど、日本の平均寿命が最も高いのはどうしてだろうか。
半世紀前に今のパソコンを見せたら、それこそ奇跡としか感じないだろう。
「奇跡」というのは、「こうしたい」と思う気持ちが突然実現した瞬間に思うものであり、科学の発展と同じことなのです。
確かに「末期ガン」で医者からも見放された患者が健康を取り戻すことは「奇跡」かもしれませんが、原因が科学的に解明されれば.もはや「奇跡」ではないし、解明されるまではやはり「奇跡」なのかもしれません。
オウム真理教の摘発が1年起れていたらどうなっていたのでしょう。
関西大震災があと2時間遅かったらどうなっていたのでしょう。
そんなことを考えると、もしかしたら「奇跡」だったのかもしれません。
![]()