愛とは何か?
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愛とはいったい何なのでしょうか。
男女、親子、人類、ペット、自然など様々な非自己に対して「愛」は発散されます。
自己愛というのもあります。
何かの対象に対して思う気持ちの一つが愛なのです。
愛という字は、「愛しい」とも読みます。
「愛しい」というと「切ない」という言葉が連想されます。
「愛しい」心が満足されないと「切ない」となるのかもしれません。
また、「愛しい」人が亡くなると「悲しい」となります。
「愛しい」は何かが発散するもので、これを受け止めるものがないと「切ない」とか「悲しい」とかになります。
さらに、「愛しさ」が伝わらないでいると、今度は「怒り」となります。
「愛しさ余って憎さ百倍」なんていうのもあるくらいなのです。
この場合の「愛しさ」は「所有欲」が満たされない場合のものなのですが、どうも「愛」という通常使用する言葉には、「無欲愛」と「欲愛」とがあるような気がします。
なにか神聖な言葉と低俗な言葉が同じ文字で表現されているような気がします。
でも、どちらとも「対象を必要」としていることは同じなのです。
与えるだけの愛でも、見返りを求める愛でも自分にとっては対象が必要であることには違いありません。
「必要な対象」に向けられる心が「愛」ということなのでしょう。
では、「必要な対象」に向けられる心とはいったいどのような心なのでしょうか。
自分にとって必要な対象なのですから、いつまでも存在し続けてほしいと思うのは当然の思いではないでしょうか。
不必要な対象であれば、存在していようが、存在していまいがどちらでも良いわけですし、「憎い」相手は存在してほしくないと思うのかもしれません。
ところが、理由はともかく対象は自分にとって必要なのですから、自分の近くにいようが、遠くにいようが、どこにいようが、必要なのであり、「支えられている」はずなのです。
自分が対象に「愛」を感じた時には、同時に対象がなんであれ、気付かないとしても、自分は対象に生きる支え、喜びを感じるのです。
「愛」は自分にとっては「支えられる」ものであり、対象には「存在し続けてほしい」という思いなのです。
ここまでくると、「支えられる」から「存在し続けてほしい」のか「存在し続けてほしい」から「支えられる」のかという因果関係が気になってきます。
また、「存在し続けたい」から「支えられたい」のか「支えられたい」から「存在し続けたい」というのもありますし、「存在し続けたい」から「支えたい」のか「支えたい」から「存在し続けたい」といのもあります。
「支える・支えられる」、「存在し続けたい・存在し続けてほしい」という対語になっていますが、「支える」と「存在し続けてほしい」が満足できない状態で「切ない」となり、「支えられる」と「存在し続けたい(存在し続けるようにしてくれること)」が満足できない状態で「憎い」となるのでしょう。
でも、「愛」を感じた時は、対象を必要だと思ったことですから、対象がどうであろうと「存在し続けてほしい」と思いますし、同時に「生きる支え」になっているはずです。
だから、対象から「支えられていない」とか「存在し続けるようにしてくれない」ことを「憎い」と思うのは、間違いなのです。
「愛」は「存在し続けてほしい」と思うことであり、このことが「生きる支え」になるということなので、「存在」自身が対象なのであり、「行動・感情」は対象ではなく、結果論なのです。
「愛」とは対象の「存在そのもの」が「自分にとって必要」であるから、「いつまでも存在し続けてほしい」と思うことであり、思うことによって「自分の生きる支えになっている」ということだと考えます。
こうした一連の感情が連鎖反応のように順次出てくるのではなく、同時に達成される思いが「愛」だと考えます。
逆に「支えられている」状況を感じたら「存在し続けてほしい」と思われていることで、すなわち「愛されている」ことだと考えてほしいと思います。
生物には「水・(空)気・食(物)」が必要ですが、これらが与えられているということが気付けば、「誰かから愛されている」ということですので、「感謝」してください。
バクテリアが肉体を支えており、これで自分が生きていることを感じたら「愛されている」ことを「感謝」してください。
景色が美しいと思ったら、見せてくれている対象が存在するわけですから、「美しさを与えてくれた景色」に「感謝」してください。
「感謝」されれば誰でもうれしくなって「幸せ」を感じ、そして「続けよう」と思うのです。
男女、親子、人類、ペット、自然など様々な非自己に「感謝」することによって、非自己は自己の「存在し続ける」ことを「支えて」くれるのです。
このことを忘れないで生きていけば、いつでも「幸せ」ですし、「幸せ」を与えることができるのです。
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