スペクトル

 これからのキ−ワ−ドはスペクトルという言葉になると思います。

 スペクトルとは分光したときの色分解のことです。

 虹は七色といいますが、中国では確か5色ですし、世界には10色以上のところもあり、文化の違いがこれにもあてはまります。

 虹は雨と太陽の光の組み合わせによってできるものですが、どこで見ようと、文化の違いがあろうと、見ているる虹は同じものなのです。

 ただ、虹は七色という親が子供に教えた記憶が、日本ではたまたま七色なのかもしれません。

 実際には、黄色とだいだい色の区分があるわけではなく、徐々に色が変わっていくだけなのです。

 単に光の波長が徐々に変化している状態を見ているだけなのです。

 色を円状に表現する方法もありますが、これは表現しやすい色を円状にならべただけなので、識別できるかどうかは別にして、色は無数にあるということになります。

 光の色は無数、無数というのは「一」であるということであり、無数の色も単に光のある側面を見ているに過ぎないことなのです。

 こうしたスペクトルというのがなぜキ−ワ−ドになるのでしょうか。

 スペクトルは「有限区分できない連続変化する対象」ということができるのかもしれませんが、何を題材にするにしても、常識的な範囲はありますが、大きく考えればグロ−バルな社会的展開からミクロな家族構成・個人の権利まで考えなければ、解決の糸口は掴めません。

 単に、常識という共通言語があるから省略できるに過ぎないということです。

 ところが、所変われば品変わるというように、あくまでもこの常識は広くても日本国内だけで活用できるものかもしれませんし、場合によっては、限定された地区にしか適用できないかもしれません。

 樹木の葉だけを見ても樹木全体は表現せきませんし、樹木全体だけを見ても樹木の性質はわかりません。

 樹木の専門家だけが単に樹皮だけをみれば、全体がわかるという共通言語を持っているに過ぎないのです。

 都市計画という私の業務があります。

 都市計画というのは固く表現すると、「都市の健全な発展と秩序ある整備を図るための土地利用、都市施設の整備及び市街地開発事業に関する計画」とされています。

 私はつねずね「人的な誘導計画以外の全ての計画が都市計画」と考えています。

 ただ、私の中心的業務は「街づくり」なので、「人的な誘導計画」も私の業務となり、直接的な物販やサ−ビス以外は私の業務の領域と考えられます。

 これまでは、お上の言うことは絶対だった時代でしたが、これからの時代は市民参加、県民参加、国民参加がないと何もできない時代となります。

 ようするに、お上が自分で考えたことを実行した場合には責任がとれないということなのです。

 そうなってくると、誰でもが理解できる言葉を用いて計画を提示する必要がでてきます。

 この段階では既に専門言語という特殊な言葉が使用できませんし、結果的に誰でもそれぞれの範囲で知りたい情報を知り得るというスペクトルな情報提供が要求されることになるのです。

 インタ−ネットという情報基盤はインタ−フェイスの簡易さもさることながら、誰でもが理解できる情報を提供しなければならないということなのです。

 専門家が言葉のマジックを使用して一種の「だまし」をおこなう時代はもう過ぎ去ることになるのです。

 こうした時代を乗り切るためには、まさしくスペクトル手法を用いた情報提供が必要なのです。

 物理学が最少粒子を求めた結果、粒子なのか波動なのか理解できないレベルに至り、言葉が無数に必要になってきています。

 スペクトルな状態を無理に区分した結果がこれなのです。

 光も放射線も電気もすべて電磁波というスペクトルな波動の一状態を示すものであり、心理学でさえも、スペクトルな意識の状態を示すものであることがわかってきています。

 また、アインシュタインが見つけたように、物質でさえ運動エネルギ−や位置エネルギ−と同じエネルギ−一形態であるということなので、粒子もスペクトルなエネルギ−の一状態ということになります。

 体と空気はあたかも区分できるような気がしますが、ミクロな皮膚の表面では、皮膚なのか空気なのかが明確に区分できない状態があり、いつの間にか体内で、いつの間にか環境だということになってしまうのです。

 全てのことが徐々に変化しており、観察者と当事者との見る位置関係によってたまたま区分できるだけだということがスペクトルなのです。

 もう自然環境を考えない都市計画はありえませんし、都市計画を考えない自然環境保全はありえないのです。

 徐々に都市から自然へ、自然から都市への変化を素直に計画すること以外にないのです。

 森林を伐採し、境界を明確にした住宅地開発はしてはならないのです。

 「地球」を題材にもう一度スペクトルを考えてみましょう。

 「地球」というのは何をさすのでしょう。

 「成層圏」までが「地球」とするならば、「成層圏」の外は宇宙ということができますが、「宇宙」と「地球」を区分する「成層圏」という境界は誰も見つけることはできません。

 「大陸と海に接するもの」を地球というならば、飛行機の中にいる我々は宇宙にいると言ってもいいことになります。

 このように「地球」という区分でさえ実に境界が不明瞭なものをさして全体として「地球」と呼んでいるだけなのであり、唯一宇宙船から見た人々が「地球」というものを見て、なんとなく明るい部分と暗い部分を境界として感じる程度がせきのやまなのです。

 水平線はそこに境界があるのではなく、境界があるように見えるだけなのです。

 世の中は基本的に境界のない徐々に変化しているもので構成されているのであり、便宜上境界があるものとして表現しているにすぎず、境界があるものとして考えた結果、限界が生じているということなのです。

 ですから、これからのキ−ワ−ドがスペクトルであり、部分を見るのではなく、全体を捉えたスペクトル的な発想をすることが、新たな提案を可能にすることなのです。

ノ−マライゼ−ションだって、ボ−ダレスだってこれの現れということに早く気付いてください。