
若松の庄 |
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「若松」の地名が歴史書の中に登場するのは、文和三年(1345年)です。 足利尊氏が下文(くだしぶみ)という命令書の中で、狩野伊豆守義茂に勲功の賞(手柄)として加賀の国若松の庄の地頭職を与えたとあります。 この狩野義茂は福田の庄(現在の加賀市大聖寺辺り)の地頭をしていた人物です。 それ以前は鎌倉時代から南北朝時代の中頃にかけて備後彦太郎という豪挨が地頂職として治めておりましたが、南北朝内乱の中で、田上の全子氏と同じように、何か不都合なことがあって没収されたようです。 その後、康安元年(1361年)の『足利義詮御教書』によれば、隣接する小坂の庄の仁木氏(室町幕府将箪の譜代)によって略奪されたので、狩野義茂に返還するとあり、さらに、応永五年(1398年)、長禄三年(1459年〉と狩野氏が義茂、茂重、茂豊と代々地頭職として、この地を支配していたことが分っております。 ところが室町時代の終り頃、長禄三年(1459年)の時期をもって狩野氏という領主も歴史から姿を消してしまいます。 一方領家(貴族側の支配者)は烏丸氏であり、永正七年(1510年)の室町幕府奉行連署奉書で、烏丸冬光に領家職が与えられています。 しかし知行はままならず天文五年(1536年)、烏丸光康は先の永正七年の幕府奉行人奉書を出し、本願寺へ知行回復を依頼していますが、「難事成儀候間、扱之儀不用のよし申出候」(天文日記)と本願寺側でも処理できなかったようです。 |
若松本泉寺 |
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本泉寺は、本願寺の蓮如の叔父にあたる如乗という人が二俣に建てられた寺といわれています。 蓮如が本願寺の第八代住職になることができたのも、この如乗の後押しのお陰といわれます。 そのこともあって蓮如は如乗の二俣本泉寺を重要視し、自分の息子である蓮乗、蓮悟の兄弟を住職に送り込みました。 ところで二俣の地は越中へ抜ける街道筋ですが、あまり便利の良いところではない上に、その下流は法華谷といわれるとおり法華宗(日蓮宗)に強固におさえられていました。 そこで、蓮乗は二俣から谷新保、そして平尾へ寺を移し10年程いた後、長亨元年(1487年〉に蓮悟が若松の庄へ出てきたわけです。 かつての二俣は越中へ抜ける要衝の地でしたが、加賀の国の本願寺教団のリ―ダ―としての地位を確保する為には、浅野川水系の北加賀の要衝の地である若松へ進出し、増大した加賀の本願寺教団を統括しようとしたのです。 この浅野川水城には早くから真宗の教えが深く入り込んでおり、有力な門徒武士や大坊主が育っており、やがて加賀の国が真宗の国に転換する、あるいは富樫氏を倒す、その一つの拠点として浅野川水城が機能したわけですが、そうした地成の要塞に位置する若松へ本泉寺を移した蓮悟は、新しい時代を読み取った動さをしたといえましょう。 蓮悟が若松に本泉寺を建立した翌年、長亨二年(1488年)、“長亨の一揆″が高尾城で富樫政親を減ぼし、いわゆる,“百姓のもちたる国″か出現します。 それから後、若松本泉寺は、能美郡波佐谷の松岡寺、江沼郡山田の光教寺とともに加州三ヶ寺、あるいは三山の大坊主と称され、加賀の国の最高実力者となりました。 それから約半世紀後の亨禄四年(1531年)、七月晦日、若松本泉寺は,“亨禄の錯乱″(又は、“一揆小一揆″ともいう)で焼失してしまいます。 これは一向一揆の内紛といわれますが、当時若松本泉寺を中心とする加賀一向一揆体制は、本願寺に対し自主独立路線をとっていました。 その頃の本願寺は蓮如の曽孫の証如の時代になっており、宗派の勢力を拡大するための武闘集団にと変っていました。 地元とトラブルを起さないことを第一義にしていた蓮如や蓮悟と大分思惑が違ってきており、加賀教団とも対立を深めつつありました。 そこへ越前の国から朝倉勢に追われて超勝寺や本覚寺の大坊主達が、加賀の国の自分達の末寺を頼って亡命してきました。 ところが若松本泉寺を中心とする加賀本願寺教団に吸収されつつある自分達の末寺の様子を見て、本願寺と手を結ぴ戦を始めました。 これが世にいう,“亨禄の錯孔”です。 そして本願寺の支援を受けた越前の超勝寺や本覚寺の勢力が、やがて若松本泉寺派を倒してしまったのです。 若松本泉寺は焼失しましたが、二俣の本泉寺は形だけの坊として残りました° “亨禄の錯乱”で敗れる迄の一時代が若松の最も栄えた時代だったようです。 その頃すでに300余戸の家があったと推定され、また門徒も4000人を数えたといわれる強大な勢力を持ち、一向一揆の般中には敵方である富樫勢の女性や子供達数百人を引き受け保護したといわれる若松本泉寺の周辺には寺内町が形成されていたようであります。 若松町在住の松尾三郎氏が調査、作成された若松地区小字名地図(後掲)からも、本泉寺のあった「御夜式(おやしき)」、宿坊や宿泊所のあった「他屋町(たやまち)」、仏壇用の漆に係った「漆田(うるしだ)」、寺の警備の人々の一角だったと思われる「上舘(うわだち)」・「下舘(しただち)」など現在若松団地と呼ばれている一帯に残る小字名から、寺を中心に生きたであろう昔が偲ばれます。 また現在の石川郡野々市町若松町は当時のこの地の出村であり、全沢市大浦町には寺領田がありました。 若松本泉寺跡は,“亨禄の錯乱″の翌年、天文元年(1532年)、念西というお坊さんが念西道場を焼け野原に築かれておりますが、度々火事にあい、また、いろいろ都合の悪いことがあって衰微し御屋敷という場所から村の中に移ったといわれております。 これが現在の専徳寺になります。 これは江戸時代半ば貞享二年(1685年)、加賀藩が一斉に寺院台帳をつくるために、当時寺号を名のっていたお寺の由緒を全部書きあげさせております。(貞享の書きあげ) つまり江戸時代半ばの1685年の時点で、この若松村ではまだ、蓮悟の御屋敷があったという記録が残っていたわけです。 “亨禄の錯乱″の後、蓮悟は能州守護畠山義総との旧交によって一族とともに府中(現在の七尾市)に亡命、若松方再興の機を窺っていましたが、叶わず、あえなく堺に落ち延ぴ、その地で天文一二年(1543年)没しました。 現在南御堂(難波別院)に子孫がいます。 |
近世の若松 |
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若松村{本村とも呼ばれる)と谷口(現在の若谷町)と中瀬(現在の上若松町)の三つの集落が兄弟格にあたり若松村を形成していました。 その名残りが現在でも連合町会を作り農業用水の管理等を行っております。 若松八幡神仕も三町共有で、参道には鳥居が三本あり、新年にはそれぞれの鳥居に新しいしめ縄を飾っています。(平成3年9月28日の台風19号により二本が倒壊しましたが、一本は再建され、現在は二本立っております) また、当時の浅野川は度々氾濫し、その都度流路が変わるなどして中州が形成され、一部そのまま残ったのが現在の上、下中島町と思われます。 当時の水源は堀切という地名などから、鈴見の大池(昭和の初め迄は若松の大池と称されていました)の奥にある小池ではないかと思われます。 この小池は面積が300坪程あり、粘土系の土質の為か、一ヶ月の日照りが続いても涸れることはないといわれておりました。 |
若松の産業、産物 |
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ア 農業 |
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江戸時代の寛文一〇年(1670年)の村御印によりますと若松村の村高は六三五石、免六ツとあります。 つまり税全を六割取られていたということになります。 他に山役、蝋役、綿役、漆役が掛けられておりました。 これにより加賀蒔絵を始めとする全沢の伝統工芸を支える漆の供給地としての機能を、この周辺の村が担っていたようです。 他の産物としては麦、大豆、小豆、ヒエ、粟、麻、などがあり、農間には養蚕なども行われておりました。 |
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イ 若松飴 |
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「卯辰観音町御用飴屋弥三郎といふ者が先祖は・・・・・・加賀国へ来り若松に居住し、若松飴とて家方の飴を製し初む」(加賀志徴)とあり全沢城下の名物「若松飴」は、はじめ当地で冬から夏にかけて作られていましたが、近世中期には全沢市中に移ったようです。 又この飴づくりは蓮如上人が教えたものともいわれています。 ちなみに扮装に趣向を凝らし余興を添えて市中を売り歩く飴売りは江戸時代に始ったようです。 元禄のころ(1690年頃)、江戸浅草の七兵衛が千年(歳)飴を売り出し、安永(1770年代)のころに浅黄頭巾に袖無羽織で、日傘に赤い絹をたらし、鉦(かね)を鳴らして歌い歩く飴売りの話が出てきます° また、現在全沢市小橋町にありますョ「たわらや」の飴も、かつて若松の麦を使って作っていたようです。 もち米と麦芽から作る淡黄色で透明な水飴か良品とされています。 ウ 中瀬の瓦製造工場 中瀬(現在の若松町京中〉には、明冶43年(1910年)から瓦工場があり、三つの窯を設け15人位の規模で若松産金沢瓦を製造LておりまLたが、能登瓦、能美瓦、江沼瓦等に比べ、地質の関係が薄弱であったことなどから、昭和10年(1935年)頃には閉鎖されたようです。 |
若松結核療養所 |
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現在の若松病院の前身ですが、大正11年(1922年)に内務大臣の命を受け、翌大正12年(1923年)12月に全沢市議会において当地を選定、議決され、更に翌大正13年(1924年)3月に山林、畑を取得しております。 面積は実測で8153坪余、価格は9200円だったそうです。 敷地の造成は大正14年(1925年)5月に竣工し、建物及ぴ設備は大正15年(1926年)6月に竣工、建物699坪余、収容定員60名の療養所が完成されました。 その後、昭和6年(1931年)に定員80名に増員する為増築されましたが、採光、保温、通風に一段の注意が払われたといわれますから、当時は不治の病であった結核に対し、並々ならぬ決志と取り組みの姿勢が感じられます。 その後、昭和18年(1943年)4月に日本医療団に移管、昭和22年(1947年)4月には厚生省に移管され、国立石川療養所の分院として発足しました。 さらに昭和27年(1952年)4月に国立療養所金沢若松園として独立、昭和52年(1977年)4月には国立療養所金沢若松病院と改称し今日に至っております。 結核療養所から始った全沢若松病院ですが、現在は病床数150床を数え、血液・神経筋・呼吸器・心身症等の難病対策医療と結核医療及ぴ脳卒中リハビリテ―ションの三つの診療機能を主体に運営されております。 |
オコ谷往来の今昔 |
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オコ谷往来は若松から現在の全沢大学を通り、二俣、富山県福光へ至る主要地方道金沢井波線をいいます。 オコ谷の由来は蓮如上人が、若松道場(若松本泉寺)に蓮悟を訪ね、更に二俣にある蓮乗の傍室に行く時、余りにも難渋の山路でありましたので、オコオコといわれたことに起因したものと伝えられています。 明治22年(1889年)、医王山村々長に選ばれた大山尾之助氏は山間僻地ゆえ交通不便であることを憂え有志と謀り、オコ谷往来を開削することを決意し、明治25年(1892年)に工事に着手、明治33年(1900年)に若松より二俣の間が改修されました。 その後、経済不況という環境の中で、小原谷往来(金沢―森本―福光)と並行線という理由もあり、工事は遅々としてはかどらず、ようやく明治44年(1911年)に県道に編入されました。 そして軍備拡張に伴い、越中立野ヶ原演習場へ行軍するにおいても、森本経由の小原谷往来に比べ10キロメートルも短縮できることなどから、オコ谷往来は地方道路以外に軍政道路の必要を認められ、大正10年(1921年)、国道予定線となり、以後、陸軍及ぴ内務省から工事費用が支出されるようになりました。 また、明治30年(1897年)に鉄道の北陸線が敷設される以前は、全沢と南栃波地方(城端、福光、井波、福野)との商取引は、すこぶる盛んで、約80名の背に各々12・13貫(45キログラムー50キログラム)の荷物を背負い三日に一往復の往来をしていたようで、金沢からは日用品、雑貨類や能美の繭などが運ばれました。 ところが明治30年(1897年)に北陸線と中越線が結ぴ付いた後は金沢と南栃波地方との取引は微々たるものになってしまいました。 更に、この頃中部日本横断自動車道の計画が伝わり、岐阜と城端間の道路完成以前に金沢と福光間の道路を拡張、整備しなければ、金沢の産業が交通上孤立する懸念が生じてきました。 そのためにも、このオコ谷往来が注目され、鉄道省の自動車道路網に編入されております。 地方道路、軍政道路、自動車道路と様々な側面を持ちながら注目されつづけてきたオコ谷往来も、昭和の太平洋戦争の敗戦を境に、その拡幅、整備事業も立ち消えとなっておりましたが、昭和47年(1972年)、主要地方道の指定を受け、未来に向けて先人達の夢が一歩一歩満たされようとしております。 |
若松八幡神社 |
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応神天皇を祭神とする若松町の旧村社で、明治41年(1908年)、若松(本村ともいう)、谷口(若谷)、中瀬(上若松)の三ヶ所の八幡社を合祀されました。 その際のおつげで中淑の宙にあった地蔵を専徳寺に移し現存しております。 また、蓮華寺の地蔵は寺の床下、地中1メ―トルから出土したものです。 境内には樹齢200年を超える杉などがあり金沢市の保存樹林に析定されております。(乎成3年(1992)2月に解除されました) |
村立下田上小学校鈴見分校 |
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大正6年(1917年)4月に鈴見分校場として設立され、昭和26年(1951年)4月に鈴見分校となり、若松・鈴見地区の4年生までが通う、先生が二人だけの小さな学校でした。 現在の若松一丁目にありましたが、昭和40年(1965年)3月に廃止されました。 校庭にあった大王松(三本一組の芽を持つ)の大木だけが今も名残りをとどめております。 |
金沢市への編入 |
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明治5年(1872年)、廃藩により石川県に所属し当時の戸数は87、人口は434人でした。 明治40年(1907年)に浅川村の大字となり昭和32年(1957年)に金沢市の町名となりました。 土地区画整理事業により昭和38年(1963年)若松一丁目、昭和44年(1969年)、若松二丁目が誕生しました。 昭和45年(1970年)、当時の戸数、人口は、若松町112戸、608人、若松一丁目41戸、159人、若松二丁目18戸、63人でした。 |
若松の芸能 ―じょんから― |
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「じょんから」の歌には、次のいわれがあります。 昔、インドのお釈迦様の弟子の木蓮尊者がある日、お釈迦様に“私の母規は死んだ後、何処へ行ったのでしょうか″と尋ねた際、お釈迦様は慈眼の窓を開けて地獄の中を兇せて下さいました。 木蓮尊者がその窓の中を目をこらして見ますと、地獄の釜の中で多くの亡者たちと一締に白分の母胤が釜ゆでにされておりました。 これを見た木蓮尊者は、お釈迦様に“母親を地獄から救い出して極楽につれてくるには、どうしたらよいのでしょうか″と尋ねますと、お釈迦様は“お前の母親だけを助けることはできないが、今の苦しみから救い出すことはできる”といわれ、お経をとなえるよう教えて下さいました。 木蓮尊者は、お釈迦様から渡されたお経を一心にとなえました、すると地獄の釜が粉々に壊れてしまい、釜の中にいた亡者たちは皆大喜ぴで外に出て、三日三晩の間、釜の廻りを大声を上げて踊りました。 その廻り方が左の方へ廻ったので、左へ廻る踊りを地獄踊りというよりになりました。 また、お盆に地獄の釜のフタが開くといわれておりますが、これは木蓮尊者がお経をとなえた日が今のお盆にあたります° そして釜の外に出た亡者たちは、みんな極楽にいってしまい、地獄はからっぽになってしまいました。 この「地獄がから」ということから「じよんから」となったのです。 若松町の「じょんから」の歌の文句は、江戸時代及ぴそれ以前は、お経だったといわれています。 これを「お経くずし」といいます。 そして江戸時代の終り頃から大正の初め頃には「かんきだん」、またの名を「お茶飲み話」という文句が歌われました。 大正から現在では鈴木主水の「くどき節」が歌われるようになりました。 昭和23年(1948年)頃から跡絶えておりましたが、約40年たった今、復活の動きがあります。 |
若松蓮華寺地蔵尊 |
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いつの頃か定かではないが、昔々、若松の一帯に大きな地すべりがあったそうな。 その折り、一体の地蔵が土の中にうまってしもうたんやと。ところがある時、若松蓮華寺の任職の夢枕に地蔵さんが現われ、「わしは長い間、土の中にうずまり苦してかなわん、掘り出してくれ。」といわれたんやと。 そこで床下を掘り返してみたら、一体の地蔵さんが出てきたので、さっそく寺の中におまつりして大切におがんでおったんやと。 それがその後二代程後の住職の夢の中に又、地蔵さんが現われ、「地蔵というもんな、道の端に立っていて、そこを通る人が災難に会わんように、仏の道をふみはずさんように守るのが役目じゃ、どうかわしを外に出してくれ。」といわれたんやと。 それでお寺の前の、皆の通る道に安置したのが今、蓮華寺の前の地蔵さんだそうです。 その上、地蔵さんの功徳を、一人でも多くの人々に与えられたらよいのでは、との住職のお考えから、分身をつくり、上若松町と角間町、陽風園とにそれぞれ安置し、日々、通りすがる多くの人達を優しく見守っているそうです。 |