
鈴見村 |
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卯辰山南麓、朝野川中流右岸の河岸段丘に位置。「天文日記」天文5年(1536)3月29日条に河北郡の3人の旗本の一人として、「鈴見与三左衛門」がみえる。 同条によれば金津庄森(現宇ノ気町)の国光の還住を河北郡か中が承認したことに関し、本願寺証如が鈴見ら旗本3人に折紙を遣わしている。 当地は一向一揆体制下の河北郡二番組に属したとみられる。 同書同6年12月18日条には「鈴見長門」の別心が河北郡より本願寺に訴えられており、同7年2月8日条には「下田長門」とある。 長門は与三左衛門と同一人か一族で当地に居住し、下田が本姓だったと思われる。 同6年の賀州三ヵ寺派余党の蜂起にくみし、証如の怒りを買ったのであろう。 証如は加賀国四郡に命じて長門を成敗しようとしたが、石川郡にも彼に心を寄せる者がいるとの理由で河北郡一郡として成敗するよう同7年4月20日申下している。 正保郷帳では若松村と併記され、高861石余、田方28町6反・畑方28町8反余。 寛文10年(1670)の村御印の高374石、免六ツ三歩、小物成は山役129匁・○役2匁・綿役1匁・漆役1匁(三箇国高物成帳)。 寛文年間の家高数5・百姓数13(高免付給人帳)。 安政2年(1855)の高279石、家数57(うち頭振10)・人数330(高免家数人数等書上)。 小豆・栗・大豆・稗・麻などを栽培(続金沢北郊の変貌)。 嘉永6年(1853)加賀藩は軍備の近代化のため村領内(若松村の一部を含む)に鉄砲製造所を設置したが、明治2年(1869)に消失(河北郡誌)。 南に郡家神社がある。 「延喜式」神名帳記載の加賀郡13座の1「郡家(タムケノ)神社」に比定される(→三池日吉神社)。 祭神は菊理姫命で白山神社とも称されたという。 また江戸時代には乾貞持ちの社として「観音さん」ともよばれていた(宝暦10年「加賀大小神社帳」)。 春祭は4月18日、秋祭は9月18日。 なお、同社の隣にある鶯の井は銘水として茶人に賞玩された(石川県神社誌)。 |
若松村 |
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鈴見村の南東、浅野川右岸に位置。 二俣本泉寺二代蓮乗(蓮如次男)の嗣としてその娘如了に配せられた蓮悟(蓮如七男)が長享年間(1487〜89)当地に坊(若松本泉寺)を開いている。 以後「若松」は当地の坊舎・住持をさして用いられることが多く、蓮悟は「若松殿」とも称され、賀州三ヵ寺の盟主となった。 なお本泉寺初代如乗の未亡人勝如も「若松尼公」とよばれる(蓮如上人塵拾しょう)。 亨禄の錯乱は超勝寺と「若松」ら四ヵ寺(転得寺を含む)との相論に始まったが(白山宮荘厳講中記録)、若松本泉寺は七月晦日に焼かれ野原と化したという(拾塵記〉。 角間川と浅野川の合流点の近く、奥卯辰山健民公園の南側山麓部周辺に寺跡と伝えられる地域がある。 大部分は住宅地として開発されているが、通称トラヤマ付近には幅10〜18メートル、高さ3.5〜5メートルの大規模な土塁で囲まれた43×38メートルの郭状の平坦面(現在は墓地)がある。 また東側にも通称オヤシキとよばれる平坦地があり、主要遺構が残されているものと推定されている。 近年の研究によれば周囲には小寺内町を形成していたことをうかがわせる「たやまち」「あらまち」「かんまら」「おおまち」などの地名が残り、越中井波〈現富山県井波町)に抜ける越中街道という尾根道も通っていた。 蓮悟は能登に畠山氏を頼って逃れたが、その余党は天文6年(1538)八月に本覚寺襲撃を企てた。 証如は賀州三ヵ寺派を「加州若松方」、天文の乱を「若松相働」と記し、加州四郡と山内へその退治を指示した〈「天文日記」同月26日条など〉。 この結果退転した本泉寺門徒は本願寺の直参とされ、「前若松下」として金津願専・大場善明・忠縄浄祐・キヌ又善正らが上番したとの記事が同書同10年11月11日条・同13年2月24日条・同15年5月22日条・同18年2月24日条・同年5月6日条にみえる。文亀3年(1503)2月12日の大館持房行状(三浦周行氏所蔵文書〉によれば、持房が加賀の福田(現加賀市)と若松邑に所領を有したが、他の全国の所領とともに「郡国封邑、今遭時喪乱、皆為守護所豪奪」とあり、知行の実態を失っていたことが知られる。 若松庄に属し幕府重臣の大館氏の知行地にもなったのであろうが、天文8年10月16日には妙法院が「若松村領家方」について本願寺証如に申付を求め、拒否されている(天文日記)。 正保郷帳によれば鈴見村と並記され、高861石余。 寛文10年(1670)の村御印の高635石、免六ツ、小物成は山役七八七匁・蝋役八匁・綿役二匁・漆役七匁(三箇回高物成帳〉。 安政2年(1855)の高516石、新田高45石余(免五ツ)、家数89(うら頭振12)・人数470(高免家数人数等書上)。 粟・稗・大豆・小豆・麻などを栽培したが、近世後期には養蚕も行われた(続金沢北郊の変墾)。 名物若松飴は観古町飴屋弥三郎の先祖が当地に来住して創製、冬から春にかけて製造した。 前田利常はじめ加賀藩主御用にしばしば献上したが、江戸中期には金沢城下に移ったので名前だけが残った(国産抄など)。 真宗大谷派専徳寺は享禄の錯乱の際、本泉寺が焼失したのち天文元年に創建されたと伝える(河北郡誌〉。 ほかに同派の蓮華寺・恵真寺がある。 鎮守は八幡神社。 |
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若松庄 |
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庄域は現金沢市若松町を中心とする浅野川中流東岸一帯に比定される。 文和3年(1354)12月9日の足利尊氏袖判下文案(狩り文書、以下断らない限り同文章)に備後彦太郎跡の「加賀国若松庄地頭職」を狩野伊豆守義茂に勲功の賞として宛行ったとある。 ところが「仁木左京大夫人道」(頼章か)が掠奪したため、康安元年(1361)義茂に改めて返付された(同年12月15日足利義詮御判御教書案)。 仁木氏は庶流の弥太郎義有が隣接する小坂庄大志目(大衆免)村地頭職を与えられており(建武4年4月21日「足利尊氏袖判下文」)、これを足場に当庄地頭職を横領したとみられる。 義詮による還付は延文4年(1359)嫡流左京大夫頼草が没し、康安元年頼章の弟右京大夫義長が南朝へ降伏したことにかかわる処置であろう。 狩野氏は義茂から茂重に替わり、応永5年(1397)当庄地頭職を安堵され(同年6月8日足利義満御判御教書)、いったん失ったのち同15年再ぴ義持によって返付された(同年一10月19日足利義持袖判御教書)。 しかし長禄3年(1459〉4月27日に狩野孫六茂豊が清三位入道成忠を退け同地頭職を安堵されたのちは(足利義政袖判御教書)、「天文日記」天文8年(1539)5月17日条に狩野右京亮が知行「上若松」を直納にしたいと申出て証如に認められたことが知られるにすぎない。 永正7年(1510)11月9日の室町幕府奉行人奉書(烏丸家文書)などによれば、領家職は鳥丸冬光が「御判」を得て安堵されていたが、明応8年(1499)9月から前将軍義尹の出奔に供奉したため年貢は百姓らの押領するところとなっていた。 そのため同奉書によって将軍職に復帰した義植(義尹)が永正7年改めて同職を安堵した。 しかし大永元年(1521)3月義植の再度の出奔に伴い不知行化した(賀州本家領謂付日記)。 天文5年10月19日、越前朝倉氏の下に寄寓中の鳥丸光康は本願寺証如に若松庄領家職の知行回復の申付を永正17年の奉行人奉書を添えて申請したが、証如は判断を保留した。 次いで同13年9月25日、証如は鳥丸家の「若松」など領家職三ヵ所分を申付けている(天文日記)。 |
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〔下若松庄〕天文5年10月22日、幕府奉公衆町野康定は安田保(現松任)・下若松庄など四ヵ所の知行回復の申付を証如に依頼したが、同月28日証如は「下若松ハ鳥丸知行」との理由から省き、三ヵ所についてのみ申付けた(賀州本家領謂付日記)。 翌6年4月28日、康定は下若松庄の領家は鳥丸家で、町野氏の知行は地頭職で鳥丸家の知行とはかかわらない分だとして再度申付を求めたので、証如はこれを認めた。 また同時に町野氏の祖父が女子に一期分として譲った「下若松庄内宇多津村分田地六段」を「其子」が活却してしまったものの、女子の没後は町野家家督に返すのが「大法」であると主張し、この田地の返付申付も依頼したが、証如は「惣而かやう之儀不存候」と拒否した(天文日記)。 時衆過去帳(清浄光寺蔵)には遊行15代尊恵(在位1417〜29)に結縁した来阿の名がみえ、その裏に「カゞ下若松ウダス」と記される。 前述の町野氏女子の一期分所領と符合するので、当庄は若松庄の北部、現卯辰町から若松町北部にかけての地域に比定される。 |