
鈴見町 |
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もとは「烽」という字であったようである。 世帯数44、人口207人、金沢市の南東部に位置し、卯辰山の南麓にあたり、浅野皮右岸の卯辰丘陵の南斜面と沖積地に位置する農業集落で鈴見台1〜5丁目の新設によって、町域は鈴見台の北と南の4ヶ所飛び地的にある。 浅野川に架かる鈴見橋によって対岸田井町に接し、南側は奥卯辰山健民公演に接している。神社は群家神社。 浅野川中流の右岸、卯辰山の南麓に位置する鈴見町には、段丘上に奈良・平安期に鈴見遺跡があり、土師器片が出土している。 |
鈴見の歴史 |
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(中世)鈴見村 |
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円珠庵雑記に、とぶ火を、日本記記にもスズミといへり。頭註に、書紀天智記云。筑紫国置防人与 烽(すずみ)。(加賀志微) |
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(近世)鈴見村 |
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江戸期〜明治22年の村名。加賀国河北郡のうち。加賀藩領。 寛文10年村御印の村高374石、免6ツ3歩山役129匁・領役2匁・綿役1匁・漆役1匁(高物成帳)。 同年の家高5軒・百姓数13人(加州三郡高免付御給人帳)。 幕末の村高は279意志、新田高1石余(加能七郡高免)。 文化期の百姓軒数40・百姓数104人、百姓下人数6、頭振軒数6・人数40人、米・大豆・粟・ヒエ・麻などを作る(本岡三郎:続金沢北部の変貌)。 神社に鈴見観音と称される郡家神社があり、菊理姫命(きくりひめのみこと)を祀る。 境内に接して鶯の井と呼ばれる泉水があり、名水として茶人に賞翫された。嘉永6年に藩は軍備の充実を図るため地内に鉄砲場の鋳造所を設置したが、明治2年に焼失した。明治5年石川県に所属。明治22年に金浦町の大字となる。 |
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(近代)鈴見 |
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明治22年から昭和32年の大字名。はじめ金浦町、明示40年からは浅川村の大字。明治22年の戸数71、人口279人。明治25年鈴見尋常小学校開設される。昭和32年に金沢市の町名となる。 近代の鈴見町とは昭和32年から原罪の金沢市の町名である。昭和45年の世帯数 267、人口1159人、同47年には一部が金沢市鈴見台1〜5丁目となる。 |
名所・旧跡 |
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群家神社 |
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鈴見町 主祭神 菊理姫命。 創立年代は明瞭ではないが、古来鈴見村の産土神(むぶすながみ)として崇敬せられ、もと鈴見観音と通称したが、明治5年村社に列した。祭礼は氏子若衆が参篭して奉仕する風習を今に遺し、慶応3年(1867年)奉納の飾鉾額を蔵する。 |
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鶯の井 |
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「鶯の井」とは、群家神社境内に接して茶道の数奇者(すうきもの)が汲んだ「鶯の井」がある。「加賀志微」によれば、鈴見牟田、今うぐいす水と云。 比清泉村家の傍らにある故、邑民朝夕汲みて日用に遣うといへども絶える事なく、尤も夏の炎暑にも増減なし。其れ冷水に実に清潔なる故、茶人は更に賞翫し、当国にての名水と称し、折々茶水の用に汲みとるとぞ。井筒の傍らに石碑を建て、鶯の井と銘競りせり。鶯の井と称する事は往古よりの事なりといへれど、其来由等詳ならず。邑民も亦伝えたる事なし。(加賀志微) |