3.街づくりのしかけ

街づくり計画の実現には、地元住民の役割が重要であるが、杜の里の場合は、新しい市街地のための住民はほとんど存在せず、大部分が地権者である。こうした人々の協力が何はなくとも必要である。

3−1 街づくりのしくみ

「街づくりのしくみ」として「規制的なしくみ」と「人的なしくみ」を杜の里では実践している。

  1. 規制的しくみ
  2. 建物誘導計画を実現する手法としては、一般的に建築協定や解く計画があげられる。

    杜の里で選択した手法は、土地区画整理事業の都市計画決定時点に指定された「暫定用途地域」といわれる、第1種住居専用地域(現状では第1種低層住居専用地域)からの用途変更と地区計画のとし計画決定を同時期に実施するものである。(現状では同時とし計画決定が指導されている。)

    土地利用計画では、配置したいと考えられる建物もしくは需要が発生すると考えられる建物の用途をハイチすることから考えられている。したがって、用途地域を考える時点では、計画された建物は一を実現するための用途地域を選択することになるが、選択された用途地域では、避けなければならない建物が配置される可能性があるため、この点を地区計画における建物用との制限によって規制している。

    また、土地の友好利用や緑化を促すため、敷地規模や公開空地的な広場・通路の有無、高木植栽の有無によって容積率の制限、建物の高さの制限を段階的に緩和することもこの用途地域と地区計画の同時とし計画決定で実現している。

    しかし、現実は非常に厳しいものであり、用途地域自体、地区に限定した考え方から成立しているものでなく、都市構造の中のバランスを考慮したものである。当然、杜の里において、都市構造上のバランスを崩す可能性のある用途地域の指定には「高い壁」が存在する。

    さらに、用途地域を前提として検討しなければらなない地区計画の各種制限内容の実現には、地権者と行政のとし計画担当者との間で多くの協議が必要であり、後述する「自治管理組合」(現在街づくり委員会として継承)のメンバ−にはつらい日々の連続であった。

  3. 人的しくみ

杜の里には「金沢市若松・鈴見地区自治管理組合」という任意団体が存在する。

街づくりの実現手法の検討、実現に向けての活動、行政と地権者との橋渡しなどがその主たる業務である。

この「人的しくみ」を実現する最大の課題は構成メンバ−がいかに「やりがい」を感じるかである。

単に組織を作ったからといって、すべてのことが順調に進むものではなく、「やりがい」に裏打ちされた「街づくりへの熱意」が必要なのであり、「継続は力なり」の段階に誘導するための「起爆剤」が必要なのである。

前述した「用途地域と地区計画の同時都市計画決定」は非常に困難な、構成メンバ−には確かにつらい仕事ではあったが、今思うとこの仕事が一つの「起爆剤」ではなかったかと思う。組織の構成メンバ−が一つの目標に向かって、とにかくわき目もふらず調整にあっちこっちとかけずり回る中で、メンバ−同士の「仲間」としての意識が芽生え、街づくり実現に向けての「目標」が定まったといえる。

 

3−2 街づくりのしかけ

「街づくりのしかけ」といっても前項の「しくみ」ではなく、「しかける」の「しかけ」であり、街づくり計画実現のための「しかけ」である。

「しかけ」の一つとして、街づくり啓蒙のイベントがあげられるが、地元の街づくりニュ−スに「あるプランナ−の物語」という連載をしており、この「しかけ」を雰囲気的に理解できるものとして私事にわたる内容も含まれるが、以下に抜粋して示す。

  1. イベントによる「しかけ」
  2. イベント企画

    いつの日から行うことが決まっていたのだろうか。「金沢杜の里 街づくりの道標」の印刷も7月に終わり、やっとひとごこちついたころに、杜の里の担当者であるN氏から来年イベントを実施するからシナリオを作ってくれとの依頼があった。半信半疑で引きうけ、それでもしばらくはこの話もと切れ、地区の模型を作る業務を受けたこともあり、すっかり頭の隅から消え去り、日々を追われる毎日を送っていたのである。

    突然N氏からの電話である。「イベントのシナリオできているのか」、その場をごまかし、上司にイベントを会社でやることの了承をとらなければならない。筆者の職業はあくまでも建設コンサルタントであり、事業の計画はするが、イベントの計画はまったく未経験であった。イベントって何をするのかから始まったのである。

    なんとか、イベントの計画の進め方、実施までの手順、整理の仕方などは「耳学問」的に理解ができたのではあるが、いやな知識まで頭に焼き付けてしまっていた。プロのイベント屋でも途中で逃げ出すことがあるというのだ。

    イベント準備

    年がかわり、時代も昭和から平成にかわったころ、街開き祭準備委員会が発足し、イベントのシナリオ作成が始まった。重いついたイベントの題材をとりまとめ、スト−リ−だてていくのが最初の仕事であるが、なんとかこの時期は過ぎていった。

    しかし、イベント本番の9月に入って地獄の日々が始まったのである。とにかくそのころにはイベント屋としての私の知名度は地区内で高くなり、この1ヶ月間は会社に行かずに、区画整理組合に通い、そのころ2台あった私の部署のパソコンを組み合いに持ってきて、組合で他の仕事をするような毎日であった。

    そんなこんなで過ごしていると、開通式などで司会を依頼している人からシナリオはまだかの催促である。「前にお渡ししたものではダメなんですか?」、「あれはあくまでも企画段階のもので秒単位の時間配分と実際に話しをする台本を書いてもらわなければ司会はできない。」との返事にはさすがの私も限界に近い状態(超えていたかも)となった。

    イベントの1週間前である。それでなくとも調整の仕事が山ほどあるのに、そのうえに秒単位までの進行を示した台本を作れとは、私をどれだけいじめたら気がすむのだろう。

    台本が閑静してみると、週刊誌くらいの大きさの紙にワ−プロ文字で120ペ−ジくらいである。ちなみに1ペ−ジには文字数でいうと800字程度は入るので、5日間程度で10万字を書いたことになる。

    日中は調整・連絡をこなし、午後8時から午前4時までの8時間で2万字のシナルオを作り、原稿用紙にすると1時間で6枚を書きまくったことになる。ほとんど自動筆記で、考えている暇(考える頭も)などなく、手が勝手にパソコンのキ−ボ−ドを叩いているという表現のほうが正しいような気がする。

    イベント開催

    1日目の最大の山場は開通式である。招待客は国会議員、建設省、知事、市長、県・市の部長クラスなどなど、失敗があってはならない。バスは用意されたるものの、約1.8kmにも及ぶ鈴見・新庄線を歩いて、植樹式、テ−プカットなど10箇所以上の式典をやりながら歩いてメインテントに向かうという流れである。

    行列の先頭を足早に進み、司会者とともに息をきらしながらメガフォンを持って歩く姿はとても建設コンサルタントの人間であるとは誰も考えまい。

    イベントにはいくつかのコンサ−トが計画されていて、かな金沢大学学生のジャズ、地域にある琴、高齢者の大正琴、知人の軽音楽演奏などが順番よろしく進められていたが、問題は人が集まるかどうかである。

    イ−デス・ハンソンの講演会は北国新聞社が植木蜂という交換プレゼントで客を集めたが、こっちはそんなものはない。車を走らせスピ−カ−でコンサ−トを知らせ、それでも少ないとなると、もう一度車を走らせる。

    400人が入るテントがなんといっぱいになっているではないか、思わず抱きつくI氏と私。

    イベント終了後、式典に使用したタル酒が本当に旨かったと思ったのは、本当の味かわからないし、「おまえの背中をみてみんながんばったんだ」とイベント実行委員から言われ、道路上でぐでんぐでんになるまで呑んだ、いつの間にか集まった「仲間」をそのとき感じた。

    街づくりは計画の実現した姿ではなく、「しかける」、「しかけられる」といった人と人との交流・繰り返しの計経過の産物であると考えられる。

  3. 施設誘致の「しかけ」

本地区における核的な施設は、センタ−地区におけるショッピングセンタ−・ホテル、マインドコミュニティゾ−ンにおける生涯学習施設、リサ−チゾ−ンにおける産・官・学共同研究施設、アクティブコミュニティゾ−ンにおけるスポ−ツ施設などである。

幸運にもショッピングセンタ−については平成6年9月(株)北陸ジャスコが当時石川県内で最大面積の店舗をオ−プンしている。

ホテルについては、バブル崩壊前には土地区画整理組合の保留地での建設希望が出されていたものの、組合としては下水道整備が終了するまでは売却しない方針で対応していたため、保留の状態のうちにバブルが崩壊し、話はなくなってしまった。

そのほかにも大手のホテルの話が2件ほどあったが、なにせ浅野川通りが本地区で行き止まりという現状のため、立地条件は絶賛していたものの、時期早尚ということで話しは途切れてしまった。

生涯学習施設についてば、スポカル(スポ−ツカルチャ−)ゾ−ンという文部省の新規モデル事業の説明会があるという情報を聞きつけ、東京まで飛んでいき、その場で手を挙げ、石川県金沢大学総合移転対策室の担当の方々の協力を得、「生涯学習重点地域整備構想」を3ヶ年で行う調査の地域指定を受けた。

構想策定そのものは終了し、担当部局に働きかけてはみたものの、いっこうに進展はしていない。

産・官・学共同研究施設については、その他の施設とともに、全国優良企業への核施設参加アンケ−ト調査を実施し、比較的積極的な企業についてはヒアリングを追跡調査として行ったが、現状は厳しく、そういう企業は全国から引く手あまたの状態で、なかなか順番は回ってきそうになかった。

スポ−ツ施設については、生保関係に話しをかけた時点で良い返事ではあったが、条件としては「施設が完成したあと」というもので、初期投資を頼める企業を探している間に例のバブルの崩壊である。

そのほか東京の不動産会社に企業情報を聞き取りに行ったことや、以前に金沢への進出を考えていた企業へのその後の状況を聞き取りに行ったこともある。

動き方が下手なのか、時期が時期なのか、少なくともこの意味での「しかけ」は成功しているとは言い難い。

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